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苦難のラトビア移住史=ヴァルパ植民地と日本移民=(4)=管弦楽団持つ文化農村

パルマ共同農場の大食堂の内部。温かい雰囲気が漂う木造の造りだ

 ヴァルパでは文化活動も盛んで特に合唱がよく行われ、農家兼芸術家が多く住んでいた。「ヴァルパ・オーケストラ部が組織され、1940—50年頃には60人から80人のバイオリン奏者がうまれた」(阿部記事)とある。
 史料館創設者のヤニスは絵描きでもあり、同館奥には代表的な油絵作品が展示され、文化の香りを漂わす。30年代のアリアンサ移住地がインテリ層が多い〃文化村〃と言われたのに似ている。
 第一次大戦時、ラトビア兵士の多くが死亡負傷し、無数の戦災未亡人と孤児が残された。それを引きとる形で29年に創立されたのが、同植民地内のパルマ共同農場(300アルケール)だ。ちょうどアリアンサ移住地とユバ農場のような関係だ。さしずめ弓場勇役がアンデレ・クラビン牧師だ。ここも財産を共有にし、最盛期には400人が生活していた。
 共同農場の姿をみて感銘を受けた弓場勇はユバ農場創立時(35年)の参考にしたという。ユバ農場関係者によれば、「弓場勇は時々、農場の若者を1カ月ぐらいパルマに派遣して住み込みで働かせ、生活様式を学ばせた」と証言する。
 パルマでは鐘の合図で朝5時に起床、6時にカフェ、6時半から11時半まで農作業、昼食を挟んで、午後1時半から5時まで農作業、6時15分から夕食、7時から週数回、合唱や管弦楽の練習という時間割だ。食事は総て大食堂で一緒にとる。ユバでは角笛の合図だが、生活様式自体は似ている。
 管弦楽団や合唱の練習にも使われた大食堂に入ると、かつて400人が賑やかに生活していた様が目に浮ぶ。洗濯場、靴屋、製材所、印刷所、歯医者、教会、パン焼き窯—今も独特の建築様式の建物群が保存され観光地となっている。
 戦前、小学校の遠足でパルマに来た経験のある阿部さんは、「あの頃はすごい賑わいだった。こんな山奥に活字や印刷機を持ち込んで新聞を作り、教会はもちろん歯医者、郵便局まで農場内にあった。当時においては高度な文明生活といえる」とうなずく。
 アリアンサ通信5号で木村快さんは、ポンペイア在住の西村俊治さん(西村農学校創設者)から聞いた内容として、《戦前も戦後も、あの近辺の日本人移住者は畜産やブラジル特有の農作物栽培についてずいぶんパルマから教えてもらったものです。支配人のアンデレ・クラビンという人は人格者で、なかなか魅力的な人でしたよ。日本人移住者の間でもアンデレさんと呼ばれて親しまれていました》と記す。
 王国バストスに養鶏をもたらし、ユバ農場に共同体生活のモデルを提供した。こんなに日本移民に身近な外国人植民地が他にあっただろうか。
 阿部さんは「宗教の力はすごいと思う。日本移民にもこのような宗教があれば…。彼らの生活は祈りに明け、祈りに暮れる。開拓生活の中で、労働力にならない老人、子供をたくさん抱えてその面倒を良く見る苦労は、並大抵のことではなかったはず」と阿部さんは感嘆する。
 祖国ではヴァルパ住民が家族に送った手紙を元にした小説が発表されて話題になったという。まるでNHKドラマ『ハルとナツ』のようだ。
 ルシアさんは、「あるご婦人がラトビアからわざわざ植民地を見に来たことがあって、『本当にヴァルパがあったなんて信じられない』って言うのよ。こっちが驚いたわ。ラトビアが独立した後、その小説が本国で再出版されたと聞きました。でもたくさん売れたのかどうか、私達も知らないわ」と明かす。
 91年12月にソ連が崩壊する過程で、同年9月に祖国は悲願の独立を果たした。「〃赤い熊〃から逃げてきた」という植民地の出自自体がソ連時代には許されないものであり、〃幻〃扱いされてきたのかもしれない。祖国の独立と共に、移民もまた歴史の闇から陽が当たる場所に出てきたようだ。(つづく、深沢正雪記者)

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