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ブラジル文学に登場する日系人像を探る3=ギマランエス・ローザの「CIPANGO」=ノロエステ鉄道の日系人=中田みちよ=第5回

ニッケイ新聞 2012年10月31日付け

 開拓期の日本人はずいぶん蛇を食べましたからね。幸運をもたらすというより精がつくと信じられていたように思います。トカゲやハリねずみなど、山を伐採中に見つけては手当たりしだいに試食したものです。
 それは故郷のだれかれに見せる一種のパフォーマンスだったのかもしれません。父はまたそんなことを誇りに思う単純な人間でしたから、得々と手紙に書かせました。
 売るための菓子って、ドーナツか揚げパンなのでしょうか。田舎のお三時は揚げパンが多かったですからね、売るというより、前後の文脈から推して棟上げの人たちに供するためだと考えるほうがすんなり収まります。
 「『ワタシ、チイサイコドモ、ヘビ カンダ。シンダ、アラサツーバ』男は壁の写真を指差す—私の男の子どもは蛇にかまれて死んだー翻訳すればこうなるだろう。男も妻も娘もだまって壁の写真を見ている。三人は私たちに一生懸命な笑顔をみせた。それは同時にきびしい喪の微笑だった。—ウツ(訳者注・鬱)、ウツ— それは私たちまで引きこまれそうになるものだった」
 ウツは明らかに日本語。日本語話者ならたやすく判じることができるカリチもウツも、他国人には判じ物になる。この手の手法を多用したのがギリェルメ・デ・アルメイダの「コスモポリス」。各国移民の母国語の作品や作者の引用が多くて、お手上げでした。そういえば日本も大正期には、やたら、原語の引用が多かったですよね。今にして思うと衒学じゃないですかね。
 「向こうでも、こっちでも人がうずくまっている。若者だろうか。半ズボンに上半身は裸。大きな麦藁帽子。レタス畑の草とり。まるでしらみでも見つけるように指先で雑草を抜く。注意深く、じっと気を入れて。雑草を見つけると、指がうごいて引き抜く。細心の注意をはらって、まるで仕上げの職人のように、絵描きや刺繍をする人のように入念に。場所を変えるときは膝を伸ばす時間も惜しそうに、半分ほど腰を伸ばしながら後ろに下がり次の畝に行く。はだしの足、ぬれた地面をしっかり捉えることのできる足。一心不乱に。周囲に耳も貸さず、見もしない」
 シャーカラの描写がかなり正確で細かく、うーんとなりました。—場所を変えるときは膝を伸ばす時間も惜しそうに、半分ほど腰を伸ばしながら後ろに下がり、次の畝に行く—。ギマランエス得意の、ミナスの辺境を描写するような純粋な観察者としての目がカリチの菜園にそそがれて鋭い。まさにこの通りなのです。腰を伸ばしてしまうと、次にかがむときに膝の裏筋がはってよけい痛いから、中腰のまま場所を移る・・・体験者の私には分かりすぎるほど分かります。
 歯のきれいな女である。サカモト・セツオとはどうやって結婚したのだろう。恋愛したのだろうか?
 「ノン、レンアイ、ノン。ワタシ ホシイ。パパイ、ハナシタ。ケンリ アゲタ」
 「ケンリ? お金を払ったんですか?」
 「ハラッタ、ハラッタ。ニホンジン、ハ・・・」
 「彼が好きなんですか?」
 「ハーイ。ハタラキモン。マイニチ、ハタラク。ヨルモ、ハタラク・・・」
 「しかし、愛情は?」
 「アイジョウ、アル。ハジメ ケッコン。ソレカラ、アイジョウ。ユックリ、ユックリ。マイニチ、スコシ・・・ハーイ」
 わたしは心で叫んでいた。
 《キタ、ビンボウ。カエル、カネモチ。バンザイ、バンザイ、ニッポン・・・。》(つづく)

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