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ブラジル文学に登場する日系人像を探る3=ギマランエス・ローザの「CIPANGO」=ノロエステ鉄道の日系人=中田みちよ=第2回

ニッケイ新聞 2012年10月26日付け

 移民の多くはマット・グロッソがどこにあり、どんなところかも知らなかったのですが、まずイツー駅に集合して(農園を逃げ出した第一回移民が多い)二手に分かれました。
 ①は鹿児島県人などと合流し、サントス港に集まった組で、鉄道建設会社が雇い入れた貨物船にのり、アルゼンチンのラプラタ河からパラグアイ河を遡行しました。
 最終的にはマット・グロッソ州のコルンバ郡のポルトエスペランサ港で下船。ここが鉄道建設の基地でした。鉄道工事を請け負ったのははじめは英国系、のちにはフランス系会社に変わっています。
 ②はイツー駅からアラサツーバ駅の奥へ進みイタプーラ方面の敷設工事に向かった組で、これは通訳の大野基尚が先導者でした。
 1909年のことなんですが、マラリア患者が続出し、マット・グロッソに足を踏み入れることができなかったといいます。そして第3回移民のなかから後続部隊がでてパラナ河を目指して進み、マット・グロッソに入るわけです。
 要するにノロエステ鉄道は、マット・グロッソ側からとサンパウロからの両方から工事が進められ、1915年にカンポ・グランデの手前でドッキングを果たします。
 ③はペルー下りの沖縄県人たちで、チリにわたり、アンデス山脈を超えアルゼンチンに入り、そこでブラジルの鉄道敷設の話を聞いてパラグアイ河をさかのぼりました。 移民導入をはかった水野龍と鈴木貞次郎も笠戸丸以前にアンデスを超え、アルゼンチンからブラジル入りを果たしていますよね。たぶん、それなりのルートができていたと考えられます。しかし、この黄金郷をめざす日本人たちのエネルギーには、ただただ感嘆するばかりです。
 なぜこんなに人が集まったかというと、給料が格段によかったからで、普通の労働者の日給が3ミルレイス以下のときに5ミルレイス。日本金にして3円。沖縄では小学校の代用教員の1カ月分の給料に相当しました。しかし、栄養失調とマラリアなどで悲惨な死をむかえた者も大勢います。大城立裕の『ノロエステ鉄道』(1989年、文芸春秋社)という本にはこの辺の事情が詳しく描写されています。
 女たちも枕木の敷設作業に懸命に働き、その重労働がもとで流産をくりかえす話などがつづられているんですよ。「読書の会」のテキストに使用して精読したのですが、現地に住むわれわれこそ書くべき題材ではないかと忸怩たる思いにとらわれました。
 香山六郎もまたずばり『鉄道工夫』(コロニア随筆選集第3巻、2008年)という小文を書き残しています。日々の労働などという小見出しもあって仕事の内容や、アカンパメントには女子どもを含む総数40数人がいたという記述などがあります。
 さて、話は戻ります。汽車の中の日本人に興味をもったローザは、その日本人を見るために友人たちといっしょにシャーカラ(小農園)を訪ねます。(つづく)

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