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第8回=アナポリス=昨年2万5千レを被災地に=日語学校とデカセギの関係

ニッケイ新聞 2012年11月15日付け

 アナポリスの松井清さんは、戦争前にリンスから出聖し、郷里が同じ平子喜三郎(ひらこ・きさぶろう、圭造さんの父)を頼って1947年にアナポリスに移転した。「平子喜三郎さんがわざわざ迎えに来てくれた」と懐かしそうにいう。
 「あの頃、日本人はまだ30家族ぐらい、30年祭(83年)の頃に70家族になって手狭になり、リンスの頃のように立派な会館や日本語学校が必要だと考えた。サンジョアン植民地時代のような活動がここでできないかと考えた」という。
 松井さんが会長の時代、88年に最初の会館(土地3千平米)を建てた。95年にケンブリッジ・コンサルタント社の河野賢二代表らの協力で、現在の8千平米の土地と交換し、会員の寄付を集めて新会館を建てた。今では会員97家族を数えるが、やはり、ノロエステの植民地生活が発想の原点だ。
 もう一カ所有名なのは戦後の「セーレス(CERES)植民地」だ。アナポリスから60キロほどの位置にあり、ノロエステ線や平野植民地などからも国内再移住組が多く入って1950年頃に建設された。米や大豆栽培を目指したがうまくいかず、数年も持たずして植民者はアナポリスなどに出てきてしまった。でもそこから藤岡兄弟が出て、今ではゴイアス州一と言われるカメラ店グループを育てあげた。
 05年4月に故郷巡り一行が州都ゴイアニアの同日伯協会を訪問した時、交流会には初美さん(当時88、熊本)ら藤岡家の人々も参加していた。1932年に渡伯した時、初美さんはまだ15歳、初入植地はやはりノロエステ線ペナポリスで、「貧乏から貧乏で、食べていかれんかと思って心配しておりました」と移住初期を振り返っていた。
 セーレスに移ったのが1949年。ゴイアニアに出て64年に第1号店の写真館「さくら」を開き、以来破竹の躍進を続け、カメラ、音響、家電販売店が56店舗もあった。ゴイアニア市だけで25店舗、ブラジリアにも27店舗、リオ、ベレン、フォルタレーザ、レシフェなどにも出店という躍進中の日系企業だ。
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 かつてアナポリス日伯文化協会には「さくら学園」という日本語学校もあった。1988年に創立し、デカセギブームにのって生徒数を増やし、最盛期には120人もいたが、94年頃に生徒が40人まで減って、経費が負担できずに潰れてしまった。
 同校理事長をしていた村松幸子さん(73、愛媛)は、「デカセギに行く前には一生懸命にここで日本語を勉強していた。08年以降たくさんのデカセギが帰ってきたけど、今度はなぜか会館には寄り付かない。帰ってきたばかりの頃は、子供とかとてもキレイな日本語をしゃべっているのに、ポ語ばかりで生活するうちに、あっという間に忘れていくみたいですね」と残念がる。
 「どうして会館に寄り付かなくなるのでしょうか?」と質問すると、匿名希望の一行の一人が、村松さんに代わってこう答えた。
 「私には会館に寄り付かない人たちの気持ちが分かる気がする。きっと日本で嫌な思いをしてきたから、ブラジルに帰ってまで日本人に関わりたくないのよ。日本に行く前は、ブラジル人から『ジャポネース、ジャポネース』と呼ばれていたのに、日本に行ったら『ブラジル人』だと日本人から差別されるような扱いを受けたから嫌いになった」と推測した。
 その上で、「でも、それは良い事じゃないかと思うわ。そこから本当の日系人になるんじゃないかしら。ノスタルジーの中の日本じゃなくて、本当の日本との距離が持てるようになる」と締めくくった。
 だとすれば、この08年以降の大量帰伯時代は、日系人を軸にした日伯関係においても、一つの大きな転換点なのかもしれない。(つづく、深沢正雪記者)

写真=挨拶する松原会長/懇親会の様子



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