ホーム | 連載 | 2012年 | 県連故郷巡り=神秘の首都ブラジリア=大砂丘の地マラニョン | 第11回=サンルイス=日系人はどこから来たか=パラー州からの南下組も

第11回=サンルイス=日系人はどこから来たか=パラー州からの南下組も

ニッケイ新聞 2012年11月23日付け

 二つの移住地がうまくいかなかった後、日本政府は土地を買い上げて、ロザリオ移住地から出た数家族などを入植させた。西脇家、上田家、細江家(パラー州から)、田坂家、四元家(よつもと)、土居原家(どいはら)、大塚家などが今も残っているという。
 交流夕食会に招待された地元日系人4人の一人、細江ハミルさん(62、二世)はその細江家のメンバーだ。彼は「祖父は1929年にトメアスーに入った」というので、由緒ある初期アマゾン移民だ。ハミルさんはそこで生れ、74年に父が養鶏をしにマラニョン州に南下したことから、ハミルさんもこちらでエンブラテルに就職した。
 『トメアスー開拓50周年史』(1985年)をひも解くと、第1回移民(29年9月着)には「細江」姓はいない。だが、第2回(同年12月着)には「細江喜一郎」(宮崎)の名があり、「マラニョン州」と付記されている。喜一郎がハミルさんの父だろう。
 地図で見ると、サンルイスからサンパウロまでは2970キロもあるのに対し、パラー州都ベレンとマラニョン州都サンルイスは805キロしか離れていない。近くはないがブラジル的にはりっぱな隣州だ。どちらも法定アマゾン地域であり、風土的にも〃近い〃関係ようだ。
 同地の山田さんは日大農獣医学部拓殖科卒、学生時代に少林寺拳法で全国学生3位に輝いた武術の達人だ。「トランスアマゾニア沿いの開拓をしたくて移住した」という初志を持ってきた。全拓連がやっていた農高生移住制度で74年に渡伯し、聖州の全寮制農業学校で3年間学んだ最後発の戦後移民だ。「学校で学んでいる間にトランスアマゾニアの開拓事業がうまく行かなくなり、連邦政府が放棄してしまった」と述懐する。
 初志貫徹は難しくなったが、そんなことで挫ける山田さんではなかった。「おめおめ帰れるか!」と思いとどまり、ゴイアス州のフランス系鉱山会社の灌漑設備計画を依頼され4年間従事し、その後、トゥクルイー発電所建設現場で野菜作りをした後、86年にサンルイスに出た。「山の中にいるのが嫌になった。海の魚が食べたい。カラジャス鉱山ができて、日系企業がでてくるかも」という期待もあった。
 翌87年に自ら発起人になって同地の日伯文化協会を作り、初代副会長に就任した。それ以前から日本人だけの「日系自治会」は存在したという。
 現在の会員数は65家族で、大学教授、技師などが多い。「私もふくめ配偶者はほとんどブラジル人。だから家庭内で日本語を話さない」。日伯協会では年に一度、運動会を催す。主にブラジル人対象の日本語教室を開いている。そこから日本留学生もでている。「この10年で、この町は大きなビルが林立するようになり、滅茶苦茶変わりました」。
 中島信之さん(61、山口)は1957年に家族でベレンに入植した戦後の子供移民(当時6歳)だ。ベレンから20キロのところで養鶏をしていたが、大学で電気科を専攻し、マラニョン州電気公社に就職したことから同地で33年間働いている。アマゾンからの南下組だ。「08年の移民百年はあまりここではやってないね」とポツリ。
 聖州ツッパン生まれの二世、川岡ミリアンさん(56)は、夫の仕事の関係で85年から同地在住だ。合計8年間ほど同協会の日本語講座を手伝っている。「漫画やアニメ好きなブラジル人ばっかり。この町でアニメ祭りもあるんです。コスプレやったりとか」。
 一行の及川君雄さん(75、岩手)=アチバイア在住=は「こんなに日系人が少ないのに日本語学校をやってることが素晴らしいと思った。日本語教育も日系子弟ばかり当てにしていたら先細りになる。この発想に参考になるヒントがあるような気がする」とうなずいていた。(つづく、深沢正雪記者)

写真=中島信之さんと山田清さん/右手前から細江ハミルさん、川岡ミリアンさん



image_print

こちらの記事もどうぞ