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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第12回

ニッケイ新聞 2013年2月12日

 美子は何度も自殺を試みていた。その方法をいやというほど児玉は聞かされていた。
「愛している」児玉がその話を打ち切ろうとして言った。
「そんなかったるいもの、私は要らない」
「愛も家庭も何も要らないというわけか」
「そう」
「それで寂しくないのか」
「私の気持ちは日本人のあなたにはわからないわ」
「在日も日本人も、所詮は男と女の関係でしかない。くだらんことを持ち出すな」
 美子は苛立った表情を浮かべながら、バッグの中から小さな箱を取り出した。箱はすでに封が切ってあった。瓶の蓋を開け、小さな白い錠剤をシーツの上に撒き散らした。
「今、私のことを愛しているって言ってくれたよね。だったら私と死んで」
 錠剤は睡眠薬だった。挑発的な目で児玉をにらみ付けた。
「断る。死にたければおまえが勝手に一人で死ねばいい。俺は止めない」児玉が怒鳴るように言い返した。
「私は韓国で生まれたかった。日本で生まれたばっかりにこんな重荷を背負った生き方をしなければならない。私は家庭なんて要らない。あなたにはわからない。私がどんな家庭で育ったか。まして私と同じ重荷を子供に背負わせることも、それを見るのも私には耐えられない」
 児玉と朴美子の仲は急速に熱くなっていったが、それと同時に亀裂も広がっていった。二人は矛盾する感情を絡ませながら、体を求め合い、心をいたぶるような関係を続けていた。
 朴美子は富士山の麓のある町で生まれた。家の前にK湖があった。美子がもの心つく頃には両親の不仲は決定的なものになっていた。「アイゴー」と泣き叫びながら父を引き止めようとする母の姿、その手を振り払い愛人のもとに走る父。二人は結婚したことを後悔し、口汚なく罵り合っていた。その罵声を聞きながら、美子は育った。
 愛情豊かな家庭のイメージを育む代わりに、紙を梳くように荒涼とした家庭像だけを脳裏に刻み込み、家族から無条件に愛されているという実感を抱くことなく、自分が存在することのやましさだけをK湖のほとりで醸成してきた。
 両親に対する反発は彼女が中学生になった時、自殺という形となって現われた。
「私がどんな方法で自殺をしたかわかる」
「そんなこと、知りたくもないし、考えたくもない」
「ちょっと、クイズだと思って答えてみてよ」
 こんな時の美子は不気味なほどあどけない表情を見せた。
「私、考えたの」
「何を」
「アボジ(父)とオモニ(母)が一番、苦しむ自殺の方法を。わからないでしょう。私が考えたのは煙草を一本飲み込んでしまう方法」
 朴美子はK湖にボートを浮かべ、その方法で実際に自殺を試みた。煙草を飲み込んだ直後、襲ってくる激しい嘔吐と体の震えを、意識がなくなるまで彼女は正確に記憶していた。彼女の自殺は両親に対する彼女の未熟な抵抗だった。胃洗浄後も体内に吸収されてしまったニコチンによって、苦悶する自分の姿を両親に見せつけることが、彼女にとっては復讐だった。
「そんな話は聞きたくない」
 児玉は朴美子を真剣に愛していた。大学に進学した美子を連れてブラジルに渡ろうかとも考えた。しかし、美子の心の中には家庭というものが存在していなかった。まして子供を生み育てるなどということは到底考えられなかった。
 美子は家庭を拒否していた。しかし、それは二人が別れた決定的な理由ではなかった。別れの本当の理由は児玉が日本人であり、朴美子が在日韓国人だったということだ。


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