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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第146回  

 

ニッケイ新聞 2013年8月27日

 

 児玉も最初のうちは人前で抱きあったりキスをしたりすることに抵抗があったが、若いカップルが何もしないでいる方が不自然と思われるほどで、どちらからともなくバスの中でもマリーナとキスをするようになった。
 サンパウロから一、二時間ほど離れた町に取材に行った帰りなど、二人がけの座席に座り、抱き合いキスをした。周囲の視線が気にならないわけではなかったが、児玉たちに視線を向ける者など誰もいなかった。ブラジル人は他人のすることなどに興味はなさそうだ。
 児玉はそのことがわかると地下鉄の中でも、市内バスの中でも大胆にマリーナとキスをした。マリーナの方も日系三世とはいえ、考え方はブラジル人そのもので抵抗はない様子だった。しかし、それが思わぬ誤解を呼ぶはめになった。
 人文研で資料を読み漁り、新聞社へ戻る途中だった。急に雨が降り出し、東洋人街のバールに飛び込んだ。雨季のスコールは二、三十分も雨宿りをしていればおさまる。たまたま入った文化協会近くのバールには、マリーナと彼女の友人二人が、やはりスコールをやり過ごすためにコーヒーを飲んでいた。児玉はさりげなく彼女にキスをした。
「今日は組合の仕事が早く終わったので、シネニテロイで映画を観て帰るところだったの」
 シネニテロイは日本映画専門の映画館だ。
 マリーナは一度ペンソンに戻り、いつものソロバン学校へ向かうという。彼女は友人二人に児玉を恋人だと紹介した。彼女たち一人一人と握手し、児玉もコーヒーを注文した。マリーナはいつものように手をつないできた。普段なら抱き合ったまま話をする。
 しかし児玉は中田編集長に取材を禁じられて以来、人文研の資料を読むと早めに新聞社に戻るように心がけていた。東洋人街を行き交う人たちは顔見知りが多かった。東洋人街で恋人と抱き合っていたところを面白半分に中田に告げ口する一世はいくらでもいる。児玉はいつものようには振る舞うことはできなかった。
 雨が少し小ぶりになったところで、児玉は「まだ仕事がたくさん残っているんだ」とマリーナに伝え、そのままバールを飛び出した。
 それから数日後、マリーナに会った。カンピーナスに取材に行くつもりだった。カンピーナスには従姉が住んでいるので、住所さえわかればロードビアリアから車で連れて行ってもらえるとマリーナから聞かされていた。
 いつものようにコンセレイロ・フルタード街にあるバール・ドゴンで待ち合わせした。マリーナは先に着いていてコーヒーを飲んでいた。いつになく険しい顔をしている。
「あんな恥ずかしい思いをしたことはないわ、あなたはなんてひどい人なの」
 マリーナは開口一番に児玉を詰った。よほど腹を立てているのか、くやしかったのか、目に涙を浮かべている。児玉には何故マリーナがそんなに怒っているのか、思い当たる節はなかった。
「どうしたの?」
 その一言がさらにマリーナの怒りを増幅させた。
「私にあんな恥をかかせておいて」
 児玉には彼女に恥をかかせた記憶などなかった。
「何故君がそんなに怒っているのか、本当にわからない。説明してくれ」
 マリーナは少しずつ落ち着きを取り戻し、怒りを抑えながら言った。
「あの時、どうして別れ際にキスしてくれなかったの? いつもはしてくれるのに」
「雨の日、バールで君の友達と一緒に会った日かい……」
「そうよ。恋人と紹介しているのに、キスもしないで別れるなんて……。そんな恋人がどこにいるというの。私がウソを言っているように思われるでしょう」
 マリーナが「恥ずかしい」と言っている意味がようやく児玉にも理解できた。そんなことで怒りを買うとは児玉は想像もしていなかった。謝り、理由を説明した。
 キスし抱き合っているところを知り合いの一世に見られたくないという児玉の思いや、仕事中に恋人と会っていたと編集長に告げ口され、窮地に立たされると懸命に説明したが、マリーナにはまったく理解できなかったようだ。(つづく)


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