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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 6—ジョセフ・M・ルイテン「ブラジルのコルデル文学」—民衆本にうたわれる日系人=中田みちよ=第4回

ニッケイ新聞 2013年3月7日

 その後、パラー州では日本人が導入したコショウ(1945年 トメアスー胡椒3万本、48年から出荷開始)やジュート(1940年頃からジュート栽培に眼が向けられています)が地域経済を活性化させた話はあまりにも有名で、この頃から日本人を揶揄するコルデルが姿を消します。46年に新円切り替えがあり、後に、勝ち組の人たちが被害をこうむる話も出てきますけど…コルデルにはなっていないようです。
 この頃、「海草の落書」という手書きの詩がサンパウロ州の北部海岸にも出回りました。匿名です。戦時中、日本人(沖縄県人が多かった)はやはり海岸線から立ち退きを命じられています。海草を買い始めたのは日本人で、地元の人に採取の方法を教え、イーリャ・ベラの貧しいカイサーラに経済的な向上を与えたとされています。これらの落書きを集めたのは、民俗学者のジオコンダ・ムッソリーニです。
 …やつらはいい連中だ
 義務はチャンとはたす
 海草も全部買ってくれる
 シモンの地区で
 もう連中は借家があるので
 すぐに、店をだすだろう
 大戦の終結を告げる「戦争の落書」という詩もあります。サンパウロ州というのは、日本人移民が一番多く、そのため、農業部門における日本人の功績が早くから認められていましたから、非常に好意的な視線です。
 原子爆弾に見舞われて
 日本は負けたのさ
 それは落下傘で落とされた
 破壊を見ないために
 無実の者がひどい災難に
 苦しむのを見ないために、だ
 60年代になると、小冊子の発行は減少します。その当時、内国移民が激増したからなんですね。農村部から都市部への流入がすごかった。さらにはトランジスターの普及があり、都市部から流されるニュースや音楽が人気を集め、もともと、コルデルの愛好者は文盲の人が多くて、村の誰かが読んで聞かせていた耳学ですからね、ラジオやテレビの方がよくなるわけです。
 そして最終的には伝統的なものとして民俗学の中に取り込まれていくという流れになるわけなんですが、しかし、70年代になって、小冊子の発行に大きな変化が現れました。ブラジルの知識層が民衆詩の再評価を始めたんです。火をつけたのはパリ大学のレイモン・カルテルという外国人研究者です。
 前述したように、2〜3万種類のコルデルが印刷されてきていますが、すでに多くのものが失われてしまいました。その理由の第一は素材が粗悪で読み捨てられる類のもの。そして、愛好者は内陸部の低所得の人々で、その人たちが多く大都会に流入してしまったからなんです。
 しかし、流入していった先で広まるという現象が現れました。サンパウロやリオやブラジリアなどが流入者受け入れの一大地なんですが、最近は発信地に衣換えしているというのです。何人もの民衆詩人も移住し、北東部以外の地で小冊子や詩が生まれているからなのです。
 ここでの読者は左官見習いや家事労働者や、半端仕事で渡り歩く人たちなど労働者。販売所は新聞雑誌の売店や郊外電車の駅、郊外を走る路線バスの発着所などとなります。
 宗主国のポルトガルがヨーロッパでもっとも識字率の低い国で、国教であるカトリックも聖職者やわずかばかりの政治的エリートを除けば、民衆はモジ表現の必要がなかった国でしたから、必然、口承文化が盛んになります。ブラジルもしかり。いまだに「上手に話す」ことが重視されています。たとえば、家事手伝いさんたちの弁の立つこと。メモの一つも書けないのにね。この雄弁術は日本人の最も不得手とするところで、日系政治家たちが苦戦するのが理解できますね。視点の転換が必要じゃないでしょうか。(つづく)



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