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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第40回

ニッケイ新聞 2013年3月26日

「そうたい。勇作が泣きながら、わしらの家に助けを求めて走ってきよった。『おばちゃん、父ちゃんな助けてくれ』と、それは子供ながらもの凄い形相だった。飛んでいったが、そん時はもう手遅れで、勇作の親父は冷たくなっとった。それでも勇作は親父を助けられると思ったのか、必死になって親父の体を持ち上げて、首に掛かるロープを外そうとしていた。『おばちゃん、父ちゃんを下ろして、助けて』という勇作の声は今も耳にこびりついとっとね。あんときの恐ろしか光景はわしも忘れられんとよ」

 入学した直後のロシア語の時間だった。モスクワ大学の留学を終えて帰国した助教授が教壇に立った。学生自治会を牛耳る革マル派の学生がオルグのために教室に入ってきた。
「先生、集会を持ちたいのですが」
 水口助教授は一瞬、表情を曇らせたが、革マル派の学生に答えた。
「何の集会ですか」
「授業料値上げ粉砕について問題提起し、戦闘的学生との連帯について話し合いを持ちたいと考えます」
 革マル派学生はアジ演説の口調で捲し立てた。
「集会をやりたいのなら、まず学生諸君の了解を取りつけたまえ」
 革マル派学生は手を煩わせるなと言わんばかりに、
「学生自治会の提起する問題に、水口助教授からお聞きのような反動的な意見が出されていますが……」
 たまりかねて水口助教授が反論した。「どうして私が反動的ということになるんですか」
「皆さん、水口助教授は授業料値上げについて論議することを妨害し……」
 革マル派学生がアジ演説を続けようとした時、一人の生徒が手を挙げた。
「自治会の方、出て行って下さい」
「私は自治会を代表して値上げ粉砕闘争………」
「出て行って下さい。先生、授業を続けて下さい」
「では、授業をすることにしましょう」
 水口助教授が教壇を占拠している革マル派学生に退去を求め、教壇に立とうとした。革マル派学生は両手で机を握り締め、一際大きな声で演説を始めた。それを遮ってその学生が怒鳴った。
「止めないか。出て行ってくれ。私は権利を主張しているんだ」
 両隣の教室にも聞こえるほどに大声だった。革マル派の学生はその声に圧倒されたのか、アジ演説を中止した。
「とっと出ていけ」追い討ちをかけるように言った。
 革マル派学生は結局すごすごと教室を出ていった。大声で革マル派を追い出したのが折原勇作で、ロシア文学に関心があるのか一日でも早くロシア語を習得しようと懸命だった。
 学生運動は七〇年安保闘争が敗北に終わり、どこの大学も挫折感に満ちていた。早稲田も例外ではなかった。革マル派と袂を分け激しく対立していた中核派、法学部自治会を掌握していた民青、三者のほかにも多くのセクトが入り込んで複雑な対立抗争を繰り広げていた。
 闘争目標を見失った学生運動は沖縄返還阻止にその勢力を注ぐようになっていた。革マル派は新入生を獲得し勢力の拡大を図ろうと必死で、授業料値上げ粉砕という新入生を取り込みやすいスローガンを掲げていた。
 中には革マル派に共鳴するものも出てきたが、白いヘルメットに夕オルで顔を隠す姿に多くの学生が違和感を抱いていた。ロシア語を選択した生徒は四十人ほどで、ほとんどが革マルには距離をおいていた。そうかといって彼らがノンポリというわけでもなかった。沖縄返還についても熱い口調で語り、自分の意見も持っていた。ほとんどのものが「共産党宣言」くらいは読み込んでいたし、アジ演説にやってくる学生よりもはるかにマルクス、エンゲルス関係の資料を読みこなしていた。


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