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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第97回

ニッケイ新聞 2013年6月18日

 どの記事を一面トップにするか、日本の新聞を参考にして、紙面構成を考え、午前中に一階の印刷工場へ原稿を送る。
 見出しは写植、記事は鉛を溶かした活字で組まれ、そのゲラが夕方の六時くらいに上がってきた。昼食を自宅に戻ってするという口実で、ゲラ刷りが上がってくるまで、児玉はトレメ・トレメで熟睡した。
 ゲラ刷りを校正し、校了するのが八時頃。途中で食事をしてから帰宅した。それから数時間程睡眠を取った。例の夢を見始める頃、客が取れなかった女たちがトレメ・トレメに戻ってくる。彼女たちに児玉は叩き起こされた。それからは明るくなるまで、女と酒を飲み、セックスづけになった。そんな生活が三ヶ月ほど続いただろうか。げっそりと痩せ、テレーザの家で週末を過ごしたが、いつも寝ているばかりだった。
 毎晩の乱痴気騒ぎはテレーザの耳にも入っている様子だった。
「他に好きになった女ができたのなら無理してこなくてもいいのよ」
 テレーザが真顔で言った。
 児玉はうつろな目で「そんなことはないさ」と答えた。
 土曜日、日曜日の昼間、マリーナと会話の勉強は続けた。以前のように児玉がポルトガル語の質問をマリーナにぶつける回数は極端に減り、マリーナの質問に答える時間が多くなった。それも気のない返事しか返せなかった。
 深い泥沼に落ちていくような不安を抱えていたが、抜け出そうという気持ちもなかった。互いにカミソリの刃で傷つけあうような美子とのセックスにはない快楽が、泥沼の中にはあった。
 民族の血だの、差別だのと、一体何を苦しんでいたのか。ブラジルの女と寝ている時には、そんなものを考えたこともない。セックスに疲れ果てて川底のヘドロのように眠る。もはや悪夢を見ることもなかった。
 いや見ていたのかもしれない。しかし、その断片すら覚えていない。快楽が過去の記憶と傷を心の隅に追いやり、封印してくれるような気がした。
「児玉さん、疲れています。会話は少し止めましょう」
 そんな言葉をマリーナから聞いた数日後、児玉は過労で倒れた。新聞社にも出社できないほどの倦怠感に襲われた。熱が出て、援護協会で診察を受け、薬を飲んでも熱は下がらなかった。
 医師は「疲労からくる発熱」と診断し、十分な栄養と睡眠を取れば治ると言った。テレーザの家に泊まれば、食事の心配もなく、ゆっくり休むことできる。しかし、そのままそこで生活してもいいという気持ちはなかった。
 トレメ・トレメの前にある公衆電話で、体調を崩しているので週末の会話は休みたいとマリーナには告げた。
 深夜になると、児玉が病気で倒れているのを知っていても、女たちは児玉の部屋のドアを叩いた。児玉もウィスキーを飲ませれば帰っていくだろうと、拒むことはしなかった。酒を飲み、彼女たちは児玉が高熱でうなされていても、そんなことは気にならない様子だった。彼女たちに共通することが一つはっきりした。十数人の女が児玉の部屋を訪れてきたが、誰一人として児玉の病状に気を遣い看病しようとする者はいなかった。
 日曜日の午後、控え目にドアを叩く音で目を覚ました。トレメ・トレメの住人ではないことはすぐにわかった。彼女たちのほとんどはドアをノックすることもせずに、ドアノブを引きまわして開けようとした。
 ドアを開けるとマリーナが立っていた。
「早く入れてください」
 マリーナは廊下に視線をやり、誰かに見られるのを恐れている様子だった。
「お見舞いに来ました」
 マリーナは果物やサラダ、サンドイッチを作って持ってきてくれた。一階のバールで、油切った食事しかしていなかったので、児玉は餓えた子供のようにサラダもサンドイッチもたいらげてしまった。


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