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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第57回

ニッケイ新聞 2013年4月19日

「それでは革命が達成されるまで在日は差別に苦しみ、山村政明と同じような犠牲者がまだ出るということになる。そういう教条主義が山村政明を自殺から救えなかった一因ではないのか」
「自殺は民青が在日の解放を視野に入れない運動を……」
「在日の解放を視野に入れている革マルが何故、山村政明の自殺を救えなかったのかを聞いているんだ」
 オルグは再びくどくどとマルクス主義の解説を始めた。箱根が苛立ったように怒鳴った。
「解説はいい。そんな『共産党宣言』の切り売りなんか止めろ。それよりも今、差別に苦しんでいる在日の存在をおまえはどう解放していくというんだ」
 オルグはそれ以上の反論はしなかった。反対に今度は箱根が一方的にまくしたてた。
「在日のおかれている現実も情況も把握せず、一片の共感もない人間がどうして在日の解放を語る資格があるんだ。君は君の中にもある差別意識を革命によって払拭できると思っているらしいが、今、彼らが差別されている現実にどう向き合うのか。祖国が分断され、その分断に日本人は加害者でしかないという歴史的事実について君はどう考えるのか。そうした問いに真摯に答えようともしないで在日の問題を安易に語るな」
 教室の片隅で箱根を見つめながら、幸代は日本人が何故、在日の問題に関心を抱くのか、あんなに熱い口調で語ることができるのか、それが理解できなかった。
 幸代はこの日以降、箱根に特別な関心を抱くようになった。それから二人は在日の問題を語り合うようになった。箱根は完全に公安警察からもその活動をマークされていた。刑事は校内に入ってこなかったが、文学部のスロープを下り切ったところにある文学部校舎正門前にはいつも二人組の刑事が授業を終えて出てくる箱根を待ち受けていた。箱根は児玉や折原のグループに加わってとりとめのない話をすることもあったが、それは幸代がいる時に限られていた。
 幸代と箱根との付き合いは日を追うごとに深まっていった。いつしか幸代は箱根に好意を寄せるだけではなく、愛するようになっていた。幸代は児玉や折原たち仲間との会話でも、箱根については意識的に触れないようにしていた。公安にマークされている箱根の動向が外部に漏れるのを警戒した。また、自分の恋人のことで友人たちが公安の刑事に尾行されたら申し訳ないという気持ちもあった。
 いつもは勝ち気で明るい性格の幸代が、学生運動や箱根の話題になると言葉を選び慎重になることを、仲間たちもすぐに気づいた。二人の仲が単なる友人というレベルではなく、男と女の仲になっていることはおよそ見当がついたのだろう。そのために彼らも箱根については幸代の前では触れないように気をつかってくれた。ただ幸代が時折不安そうに漏らす言葉から、箱根が活動家幹部として公安だけではなく、敵対するセクトから狙われている現実は十分に認識していただろう。
 間もなく箱根はキャンパスから完全に姿を消した。箱根が革マル派から目をつけられ完全にマークされたのも一因だった。執拗なマークに身の危険を感じたのかもしれない。まったく生き方の異なる箱根のことは、次第に彼らの話題に上る機会もなくなっていった。
 しかし、二人の交際はその後も続き、幸代は思想的に大きく箱根から影響を受けていた。大学三年の秋のことだった。幸代はスロープの壁にもたれかかりながら一人考え込んでいた。日はすでに落ちかかって肌寒かった。
「おい、授業はもう始まっているぞ。樫山教授の哲学、一緒だったろう。出席日数もテストの評価も厳しいという評判だぞ、早く行こう」児玉が声をかけてきた。
「私、今日は休むわ」
「どうしたの、顔色が悪いけど」
「ありがとう、でも、大丈夫よ」
「それならいいけど」


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