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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第84回

ニッケイ新聞 2013年5月29日

「持ち帰りが一匹、二匹くらいなら、その被爆者は簡単に死なないんだ。でもごっそり付いている時は、翌日訪ねていくとほとんど死んでいたよ。シラミは死んだ人間の血でも吸うと言うけど、違うんだ。もうすぐ死ぬ人間から離れて生きのいい人間の方へ移動する。うわ言のように広島、広島って言いながら死んでいった被爆者もいたよ。酒でも飲まないと自分が壊れてしまいそうな気がして、それで酒を飲んだっていうわけさ」
「そうなの……」
 美子は別世界の出来事を聞いているようで、それまでの威勢のよさは失せていた。
「俺が何をしているか旅館のオヤジは知っていて、ビール瓶を持って俺を追い回した男を羽交い絞めにしてくれた。その男は植民地時代に日本人の教師に殴られ、日本人生徒に差別され、ひどい目にあったと最後は泣きながら叫んでいたよ。美子も刺し殺してやろうと思うくらいに日本人に差別されたことはあったのか」
 美子は首を横に振った。
 その晩はソウルと釜山で被爆者の死を目にして帰国した直後で、心もささくれ立っていた。いつも二人で飲みに行っていた新宿歌舞伎町のパブでも、ウィスキーの水割りを次から次に煽っていた。
「日本人の貧乏学生にできることなんてタカがしれている。残った金でサリドンを買って、逃げるように帰国するだけさ」
「サリドンって何?」
 襲ってくる痛みを少しでも和らげようと被爆者が服用する鎮痛剤だ。経済的に余裕がある者ならば、一箱単位で買える。しかし、児玉が会った被爆者は、貧しい労働者が屋台の雑貨店から一本一本タバコを買うように、彼らは一服ずつサリドンを買っていた。児玉の見舞い品はいつもサリドンだった。
「でも、それって日本人として当然の贖罪でしょ」美子は児玉を小ばかにするように言った。
「そうだな、贖罪だよな。サリドンの一箱や二箱じゃケリがつきゃしない。ところで美子は在日二世として、日本人を告発するだけじゃなくて、現実的に韓国の民衆とどんなふうに連帯して、日本との新たな歴史をどう構築しようとしているんだ」
 児玉も酒が入ると、大学で革マルや民青と議論するような口調に変わっていた。その晩は特に激しく詰るような口調になっていた。美子が沈黙した。
「帰化したとはいえ、民族的には在日韓国人って美子はよくいうじゃないか。帰化した事実は君の意思でないことはわかるけど、在日というなら日韓の歴史をどう変革しようとしているのか、聞かせてもらおうじゃないか。主体的に君がどんなことをしているのか、俺が何をなすべきかを教えてくれよ。在日の美子と日本人の俺が、できることなら連帯して闘いたいと思っているんだ」
 その晩の児玉はもはや因縁をつけているとしか思えない酒の飲み方だった。酒を飲んでも、他人に絡むことなどなかった児玉が美子に絡んでいった
 日本へ帰国する前日に釜山の被爆者には会ってサリドンを届けた。その被爆者は釜山港を見下ろす山の頂き近くに住んでいた。雨が降れば小川のようになって流れ下る細く入り組んだ道を、被爆者協会会員の案内で上っていった。どの家も板切れで作った「ハコパン箱房」と呼ばれるバラック小屋で、山の頂きに近くなればなるほど「箱房」は粗末な作りになった。
 その被爆者の小屋は屋根が半分抜け落ち、そこから海風と雪が吹き込んできた。凍死していないのが不思議なくらいだった。
 六十代半ばだというのに、年齢よりははるかに老けている。頬骨だけが異様に浮き出て、目やこめかみは陥没しているように見えた。何日も風呂に入らず、無精髭だらけで、それもほとんど白髪だった。土間に板を置いただけの部屋で寝ていた。児玉が訪ねると、布団から起き出した。
 板の上に児玉と会員が座ると、「寒いだろ」と被爆者が言った。


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