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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第14回

ニッケイ新聞 2013年2月15日

 昼休みにペンソンに戻り、蚤を殺してやろうと毛布をそっと剥ぐと、五、六匹が白いシーツの上で飛び跳ねていた。しかも日本の蚤とは比べ物にならないくらいに大きく、黒い米粒が跳ねているように見えた。その場で荷物をトランクに詰め込んでペンソンから逃げ出した。
 知人の紹介でキッチネッチと呼ばれるバスとキッチンが付いた十五畳ほどのワンルームを借りた。ベッドと机、それに日本から持って来たトランク二つ分の着替え、部屋にはそれだけしかなかった。しかし、蚤からだけは解放された。そこから新聞社へ歩いて通った。
 サンパウロは雨季が始まろうとしていた。一日一回は必ずといっていいほどスコールが舗道を洗った。スコールが止むとまぶしいほどの太陽が照りつけた。パウリスタ新聞は「コンデの坂」と呼ばれる急な坂道を下り切ったところにあった。通称「ボッカ・デ・リッショ(ごみの入り口)」といわれる地区で、二十階以上の高層アパートが乱立し、それらのビルの谷間にある四階建ての古びたビルがパウリスタ新聞の社屋だった。その一角だけは昼間からどことなく薄暗かった。
 戦前には日本人の旅館、理髪店、うどん屋、豆腐屋、歯科医院、洋服店、時計店が並ぶ日本人街の中心地だった。今では社屋の周りにはハングル文字の看板がやたらと目についた。韓国人経営の写真屋、文房具店、薬局、スーパーマーケット、雑貨店が多く韓国人街の様相を呈している。
 近辺のアパートはどこも古く、中に入ると異様な臭気が立ち込めている。韓国人とこの界隈で商売をする街娼がこのようなアパートで暮らしていた。街娼たちは深夜になると乱痴気騒ぎをしょっちゅう引き起こした。近い上に安くて便利だとこのアパートに住んでいる同僚の記者は眠そうな目をこすりながらよく苦情をこぼした。
「昨夜はすごかったよ。あいつらと来たら屋上でラジオのボリューム一杯にあげてサンバをかける、焚き火はするで寝ていられない。酒に酔った勢いで銃をぶっぱなして警察と銃撃戦まで始める始末だよ」
 他のアパートに替わればいいと思うのだが、邦字紙記者の給料などたかが知れていて、普通のアパートでさえ借りることができない。
 児玉が借りたアパートは新聞社から徒歩で十五分くらいの距離のところにあり、二十七階建ての十三階で見晴らしも良かった。目の前に広がるパルケ・ドン・ペドロ・セグンド(ドン・ペドロⅡ世公園)は市内バスのターミナルで二十四時間、バスは騒音を上げて動いていた。そのターミナルの横にはメルカード・ムニシパル(市営市場)があって、肉や果物、野菜が安く手に入る。
 今では郊外にあるセアザという州食料配給センターにブラジル各地から食料が運ばれ、サンパウロ市民に供給される。市営市場はその影響で以前の活気はないにしても、深夜十二時を回ると唸るような音を立ててトラック一杯にバナナ、オレンジ、パイナップルを積んだトラックが次々に入ってくる。トレメ・トレメは、バスとトラックの騒音が気になるくらいであとは快適だった。
 羽田を飛び立った後、初めてポルトガル語会話の本を開いたくらいだから、直ぐには話すことはできなかった。しかし、一人で暮らしていると、片言でも自分で話さない限り食事もできない。辞書を片手に市営市場に買い物に行くことからポルトガル語会話の勉強が始まった。
 オレンジやトマトは一ダース単位で売られていた。牛肉は一キロ単位、鶏肉は一匹単位、驚くことばかりだった。辞書と買い物籠を持って市場に入ってきた客が珍しいのか、市場で働くブラジル人からよく話しかけられた。
「俺はポルトガル語が話せない」
 それでも彼らは人懐っこくて話しかけてくる。何を言っているのか理解できないで困り果てていると、野菜売り場の二世が日本語で助けてくれた。
「どうした」
「日本からきたばかりでまだポルトガル語が話せないんです」


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