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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第60回

ニッケイ新聞 2013年4月24日

「モブラールに通ってみます」
「文字が書けないブラジル人のための学校なんだよ」
 竹沢は心配でたまらないといった表情を浮かべている。「家庭教師を雇うのならいくらか会社の方で援助するよ」
「お気持ちはうれしいのですが、しばらく通ってみます。面白そうじゃないですか。役に立たなければその時はその時でまた考えます」
 こうして小宮のモブラール通いが始まった。学校は会社から歩いても通える距離のところにあった。受講するには受付で名前と住所を登録だけですんだ。指定された教室に入ると、百人近い生徒が机に座っていた。空いている机を見つけて席に着いた。回りを見渡してみると様々な生徒がいた。ノートも鉛筆も持たずに裸足で席に着いている子供もいた。その横にはその子の祖父くらいの年令の老人が、講義の始まるのを手持ち無沙汰といった様子で待っていた。
 男も女も二十代、三十代の者がかなりの数に上っている。その日の仕事を終えて学校に駆けつけたのか汗臭いTシャツを着たままの男や、授業が終わったら出勤するのか、どぎつい化粧をした水商売風の女性もいた。
 肌の色もまちまちだが、東洋人らしい生徒は一人もいなかった。ブラジルには日本人の他には中国人、韓国人の移民がいるが、彼らはこの手の学校に通わなければならないほど経済的に困窮しているわけではなかった。ここに通ってきているのはブラジルでも貧しい人々だった。
 彼らにとって東洋人の生徒がよほど珍しいのか、縮れた茶髪に茶褐色の肌をした十五、六歳くらいの女性が話しかけてきた。
「セニョール、あなたはシネース(中国人)なの、それともジャポネース(日本人)なの……」
「私は日本人だよ、小宮というんだ」
「私はクラウジア、パラー州ベレン出身なの、よろしくね」
 二人の周囲にはあっという間に人だかりができた。小宮が日本人だとわかると、クラウジアだけではなく他の生徒も小宮に話しかけてくる。
「名前はなんていうんだ、もう一度、言ってくれ」
「小宮だ」
 日本人の名前は聞き取りにくいのか、彼はノートに「KOMIYA」と書いて、彼らに見せた。小宮を取り囲む生徒の間から驚嘆の声が上がった。
「セニョールは字が書けるのか。字が書けるのにどうしてこの学校にきているんだ」
 二十歳前後の男性が不思議そうな顔をして聞いてきた。
「まだブラジルに来たばかりでポルトガル語がうまく話せないからここに来たんだ」
「字が書けるのに話せないのか」
 彼は字が書けるのに話せないことを不思議に思っているようだ。
「若い日本人、日本まではオニブス(バス)で何時間くらいかかるんだ」無精髭をたくわえた老人が聞き取りにくいポルトガル語で聞いてきた。
「えっ、何ですか」
「日本までバスでどれくらいかかるんだ」
「言っている意味がよくわからないんだ……」すまなそうな顔で小宮が答えた。
「このおじいさんは日本までバスでどれくらいかかるかって聞いているのよ。ブラジル北部のパラー州訛りが強いからベレンあたりから出て来たんだと思うわ」
 小宮を取り巻いている後ろの方から流暢な日本語が聞こえてきた。振り返ると黒人女性がノートを抱えて立っていた。
「あなたは日系の方ですか」
 小宮は日本人と黒人とのミスチッサかと思った。その女性の肌は日本人というよりも黒人そのものだった。
「これでも日本生まれの日本人よ」
 小宮は一瞬、言葉を失った。彼女の返事をどう理解していいのかわからなかった。彼女に挨拶をしなければと席を立とうとした時、教室に教師が入ってきた。大学生のボランティアのようだ。生徒たちはそれぞれ自分の席に戻った。


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