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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 8—L・F・ヴェリッシモ『ジャパン・スケッチ』—過去と未来、同時進行する国=中田みちよ=第4回=皇居の森に国民の崇敬感

ニッケイ新聞 2013年6月19日

 歌舞伎はイヤホーンから流れる解説といっしょに観劇したんですが、正直いってあまり面白くなかったですね。外国人はおおむね神妙に、神妙に観劇しているんですが、あれはやはり、真摯に日本の伝統を受け止めている姿勢なんでしょうか。元日本人のほうが態度が悪いのかもしれません。
 『住宅空間は日本人にとって、その階層を問わず大きな課題である。金があるからといって必ずしも住みよい空間を持てるわけではない。タタミという住居の床を覆うものがあるが、出世するということが必ずしもタタミの数が増えるということではないのだ。これは物理的に個人が獲得できるスペースが限定されているからである。
 反して、寺院などは大きな敷地を有している。その大半は祈祷・崇拝以外には役に立たないものである。この大きさが崇拝の形として存在している。天皇は東京のど真ん中に大きな森を有している。宮城をとりまく膨大な杜。小さな国のこの大きさ、すなわち崇拝・尊敬の念の大きさなのであろう』
 『日本は二つの空間に分かれ、同時に進行している。一方は日常の狭い空間。道を急ぎ、商取引を急ぐ。もう一方は過去に向けられている崇拝や緩慢な儀式にささげられる大きな空間。この空間を行ったり来たりするのは…靴を脱ぐだけである』
 なるほどねえ、靴を脱ぐだけで伝統の日本に行けるのよねえ、と感嘆しました。日本人にはない視点かもしれません。私も意識したことがありませんでした。最も、これは元日本人の感慨かもしれませんが。足を引きずるスリッパだって、日本的な空間の所作として捉えれば違和感はないのかも…でも、万人が足を突っ込む共同スリッパはキタナイと靴下をはく二世娘がいるのも知っていますよ。そうそう、ミズムシという不潔なハナシも存在しますしね。
 『京都はお城とお寺の町である。見学に2日かけた。清水寺。まあ、水のきれいな寺という意味だが、お釈迦様の足跡が遺された石や不動明神の不老不死の泉がある。泉の水をいっぱい飲んだ。不動明神の水が私のサフェナをめぐることは身体にきっといいはずだ』
 『…能を見に連れて行かれた。歌舞伎のほうが大衆的、能の方が古く、貴族・武士階級の娯楽として発達した。…動作が少なく古典的、内奥的である。…大半は単調な役者の朗誦がつづく。活気のない背景に不規則に鳴る鼓の音で、それがと切れる。幻想的な雰囲気は飽きることがない。この伝統的な様式美にまるで催眠術をかけられたようになり、優雅にかなでる朗誦が理解できるような気になる。まあ、能にしろ歌舞伎にしろ文学的にはメロドラマ風である。…特に能は舞台上でうみだす浄化作用が大きな力となっている』
 イピランガの丘でおこなわれた「薪能」公演。やはり身じろぎもしないで観劇していたのはブラジル人のほうでした。今気がついたら、これらの公演は全て基金が仕切っているんですね。国際交流基金の仕事はあるいはブラジル社会の方に名が売れているかもしれません。最も、それが基金創設の目的でしょうけれどね。それなりにいい仕事をしていたのに、最近は日本の緊縮政策ゆえになかず飛ばずで、影が薄くなっていませんか。
 『もう、来ることはないだろうと日本に別れを告げた。行くには高すぎるし、滞在にもものすごくかかる。だから、さらばトウキョウである。成田も日本も再び見ることはないであろう。不動明神の泉の水だって、再び飲むことはないだろう…などといってはいけなかった。…その2年後にはまたもやルシアと日本を歩いていたのである。今回は日本の観光振興協会とジョアキン・フォンセッカの会社からの招待なのだ…ジョアキンはスケッチブックと鉛筆を持ち、私は例のようにフィルムが入っていない私の頭脳カメラ。私たちの目的は帰国後にこの本を著すことだった』(つづく)



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