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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第105回

ニッケイ新聞 2013年6月28日

 帰宅すると、炬燵に入ろうとする母に伝えた。
「これから手続きを開始して、いちばん早い訪問団に入れるのはいつなのか聞いてきて」
 幸代のその一言を待ちかねていたように母親が答えた。
「お前ならそう言ってくれると信じていたよ」
 早稲田大学の講師を辞職することには躊躇いもあるが、幸代の収入で共和国の家族を支えなければならないのだ。恩師の期待を裏切ることになるが仕方ない。二月には入学試験が行われる。講師として残された仕事は、入学試験の会場で不正が行われないように試験監督をするだけだった。
 恩師には手紙を書こうと思ったが、やはり直接伝えるべきだと思い直し、その晩、来年早々に会いたいと電話で伝えた。
 母親は対照的にガンが完治した患者のように急に溌剌として、毎朝出かけるようになった。総連に行って短期訪問の手続きを調べ出したのだろう。大学に講師の辞退を認めてもらうまでは、春からの予備校講師の契約を進めるわけにはいかない。しかし、共和国で暮らす家族のことを思うと、そんな悠長なことはしていられなかった。
 案の定、幸代の恩師は大学に残るように言ってはくれたが、事実を伝えるしかないと思い、すべてを恩師には説明した。東アジアの歴史の研究家として内外に知られている恩師も当然、北朝鮮の内情には精通している。
「もし困ったことがあればいつでも相談に来い。ただし私がまだ大学に在籍している間に、だ」
 しかし、幸代は早稲田大学の教壇に立つことは二度とないだろうと思った。予備校にはその日のうちに、他府県の予備校でも教えられるので、可能な限り授業数を増やしてほしいと申し出た。
 年内にそれらの仕事を終わらせ、一九八〇年の年が明けると、幸代はF銀行の融資相談窓口を訪ねた。それまでに融資に関する銀行のパンフレットを取り寄せ、融資の目的を何にするか必死に考えた。海外旅行や自動車購入のためのローンも三百万円まで保証人がいなくても融資可能だと記されていた。
 母親を北朝鮮に旅行させるために融資してくれと正直に申告しても融資が下りるとは思えなかった。しかし、融資可能な使用目的は海外旅行だけしかない。
 一月早々、開店したばかりのF銀行の融資相談窓口で「融資の相談に来ました」と言った。応対に出てくれたのは三十代半ばの男性だった。
「海外旅行をしたいと思っているのですが、融資していただけるでしょうか」
「どちらの方にご旅行される予定なのでしょうか?」
 温厚な言葉使いだが、幸代の素性を何気なく探っているような印象を受ける。
「中国を二、三ヶ月かけて回ってみようと思っているんです」
 相手はOLが一週間程度の海外旅行費用の融資を申し込みに来たと思っていたのだろう。
「そんなに長期間にわたるご旅行ですか。失礼ですがどのようなお仕事をされているのでしょうか」
 幸代はショルダーバッグから名刺入れを取り出し、早稲田大学講師の名刺を相手に渡した。
「大学の先生をされているのですか」
「教えているといってもまだ講師です。東アジア史が専門なのですが、春休みを利用して中国国内を回り、資料を集めたり、中国の大学教授とも会って意見交換をしたいと思っているのです」
 早稲田大学の名刺が意外なほど効果があった。相手は申込用紙をカウンターに置き、説明を始めた。
「必要事項をご記入し、給与証明書か確定申告のコピーとか、収入を証明できる書類を揃えて提出していただければ、審査し一週間以内に結果をお知らせすることができると思います」
 幸代はすぐに必要書類を用意し、融資限度額いっぱいの三百万円で申し込んだ。書類提出の時、応対に当たった男性行員からクレームをつけられるかと、内心ビクビクしていたが、大学の給与だけではなく予備校の講師の収入もあり、何も言われなかった。


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