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ブラジル文学に登場する日系人像を探る 9=ベルナルド・カルバーリョ=『陽はサンパウロに沈む』=中田みちよ=(1)=迷路をさまよう日系人達

ニッケイ新聞 2013年7月25日

 同じ160余ページでも前回のルイス・フェルナンド・ヴェリッシモの『ジャパン・スケッチ』と、このベルナルド・カルバーリョ(Bernardo Carvalho、1960年)著『陽はサンパウロに沈む』(O Sol se poe em Sao Paulo、2007年)は内容的にボリュームが大いに違い、こちらの翻訳には3年以上もかかって、ようやく本年初めに終わりました。
 まあ、3年とはいっても毎日翻訳したわけでもなく、難解なところは何カ月もほったらかしでしたから、実質一年くらいでしょうか。それにしても、あまりにも内容が盛りだくさんで、疲れる本でした。
 ようやく17章を、17章といえば終章で(18章まであるがこれは作者のモノローグで本筋とは無関係)、ここを読んではじめて、遺書となるマスキチあての手紙が公開されてストーリーの全貌が把握できるような構成になっています。
 物語は、語り手自身がこうまとめています。『…一人の男と一人の女が他人になりすまし誓いを果たす話。演じることを禁じられる役者、自己を否定された祖国のために戦わなければならなかった男、あるいは召集され他人の名前で生きなければならなかった男、愛することが不可能になってから愛を悟った女、作家でない間だけ作家になれた男、私たちが現在いる場所にいるべきでない不可触賤民の話、…それが地球上のどこであれ、…自分以外の誰かになることは決して不可能でないという話』
 ということで、なんだか、狐に抓まれているような感じがしないでもないんですけれどね。
 谷崎潤一郎から三島由紀夫の名まで登場し、それから伝統芸能の狂言役者が出てきて、戦争が始まると召集を回避するために部落民の息子が身代わりになり、沖縄戦で戦死したはずの息子は息子でなく、その身代わり息子がブラジルに渡って農場主の娘と結婚し、義父が勝ち組のメンバーの一人でと、まことに入り組んだ話です。
 話の大筋がわかると、やたらとややこしい話が少しすっきりしますけれどね。まあ、ジャーナリステックな視点ではありますが、よく調べましたわね、と感心しました。たぶんベルナルドは、作家というよりルポライターかもしれませんね。
 リベルダーデにあった「精養軒」という学生が溜まり場にしていた日本人経営の食堂から話が始まるんですが、汚い横丁のはやらない食堂。現在でも似たような食堂が数多くリベルダーデ地区にありますよね(最近は中華系が多いようですが)。学生時代の不毛な議論を重ねた場所としてリベルダーデが登場しますが、年賦をみると作者のベルナルド自身もそのリベルダーデで青春の日々を送っています。
 『未来とは過去の投影にほかならず、人間とは見るために準備されたことしか見えないものだということが、わたしを苛立たせた。文学であれ、美術であれ需要のないところには供給はない。精養軒で議論するわれわれはなにも視ていず、つまるところ、既成観念から逃れられないものだということに気がつかずにいたのだ。作品がその綴られる文脈から切り離せないように、われわれが、現在から逃れられないように、である』
 そういえば、第7回のジョアン・アントニオもリベルダーデに入り浸っていました。最近出版されたばかりの岸本アレシャンドレ著『リベルダーデの日本シネマ』(Cinema Japones na Liberdade、2012年)を読むと、リベルダーデを愛した非日系人がかなりいて、それなりの「族」を形成していたことが分かります。私たちはもっともっと、ポルトガル語で書かれた出版物に目を通さなくては、と痛感したところです。ポルトガル語で書かれているのに、知っている役者の名前や映画のタイトルも多く出てきてなんだか懐かしくなる本です。(つづく)



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