ホーム | 連載 | 2013年 | 第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩 | 第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(56)

第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(56)

ニッケイ新聞 2013年8月1日

 オールデン・ポリチカは、これ以前から、日本人社会の内紛、特に臣道連盟に関する捜査をしていた。例えば、先に記した様に、ツッパンの日の丸事件では、刑事を派遣している。
 が、非日系のブラジル人刑事たちには、日本人社会の内情は判り難かった。下働きの様な形で日系人を一人、二人使っていたが、彼らでは要領を得た調べや報告はできなかった。
 そこに、日本人社会の指導者たちの意を受けた形で、しかも軍の高官の紹介で、藤平・森田が接触してきたのである。二人は、ポルトガル語の会話が上手く、日本人社会に精通しており、臣道連盟を秘密結社・犯罪組織視していた。しかも有能そうであった。オールデン・ポリチカにとっては好都合であった。
 喜んで、二人を協力者として迎え入れた。

 四月一日事件

 溝部事件から3週間後の1946年4月1日、サンパウロ市内。
 認識運動の代表者格の古谷重綱、同運動の実務の中心人物である野村忠三郎が、それぞれの自宅で襲撃された。
 古谷は無事、野村は死亡した。
 襲撃者は、前出のパウリスタ延長線から出聖した決起組であった。野村を標的に加えたということは、サンパウロへ出て、運動に於ける彼の存在の重さを知ったことを意味する。
 これに先立ち、決起組は(全員ではなかったが……)3月30日から31日にかけての深夜、やはり認識運動の代表者格の宮腰千葉太を狙って、パンプローナ街の彼の住宅へ、接近していた。が、そこには警備の刑事らしい人影があった。すでにサンパウロでも不穏な空気が流れており、認識派に警戒気分はあった。
 そのための警戒か……と彼らは疑い、計画を中止、引き揚げた。
 決起組の仲間は11人居たが、この宮腰宅への接近の直後、新屋敷砂雄が急病で抜けた。
 翌日未明、10人が5人ずつ2班に分かれ、古谷・野村宅に向かった。
 古谷班は、渡辺辰雄を指揮者に吉田和訓、池田満、北村新平、日高徳一、野村班は谷口正吉を指揮者に本家正穂、上田文雄、蒸野太郎、山下博美という構成であった。
 古谷班はアクリマソン区の古谷宅に着くと、庭に入り込んだ。そのまま待機、古谷らしい人影が起床、部屋に電燈をつけるのを見て窓越しに射撃した。窓ガラスが砕け散り、出来た割れ目からさらに撃つ予定であったが、ガラスには小さな穴が開いただけ。しかも人影は素早く隣室に逃れた。
 表に廻ってポルタを破ろうとしたが、破れなかった。そうこうする内、警官が駆けつけた。襲撃は失敗した。
 野村班は、ジャバクアラ区の野村宅に着くと、家の周囲を取り囲んだ。夜明け前であった。
 谷口が指示した。
「ポルタが開いたら飛び込もう」
 と。
 やがて家の中が明るくなった。裏口が開き、野村夫人が出てきた。一人が、それを押さえた。蒸野が、家の中に入った。野村が奥から出てきた。蒸野が38口径の拳銃を向け、引き金を引いた、2回。山下も撃ったが、不発だった。
 野村、即死。48歳。認識運動を推進するためには、邦字新聞の再刊が急務であると、その準備をしていた。
 10人の襲撃者は、事件直後から翌日、翌々日にかけて5人が逮捕された。
 他の吉田、北村、日高、蒸野、山下は市街地や近郊に潜伏した。
 これが「四月一日事件」である。(つづく)



image_print

こちらの記事もどうぞ