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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第129回

ニッケイ新聞 2013年8月2日

「そうよ。あなたが来る前は、日本からすごい記者が来るって話だった。あなたがくれば少しは楽ができるかと思っていけど、取材先は以前と同じで負担は減らないし、タクシー代も出してくれないからバスで取材先を回る。コンデの坂を一日に二度も三度も往復するから、ダイコン足はますます太くなるし、家に帰ったら後は寝るだけよ」
「それは申し訳ありませんでした。ここの勘定は私に任せてください」
 児玉は笑いながら答えた。
「あなた、会社からどれくらいの給料をもらっているの? サンパウロに来てからずっとボアッチ通いをしていたというじゃないの」
「そんな話まで知っているんですか」
「私だけじゃなくて、この界隈の人はみんな知っているよ」
 児玉は給与額を安藤に教えた。安藤よりも児玉は安月給だった。
「あの遅配の給料でよくアパートを借りられたわね」
 児玉はカメラやテープレコーダーを売って生活していることを告げた。
「安藤さんはどこで暮らしているんですか」
「私は息子と二人でポロン暮らしよ」
 サンパウロは標高八百メートルの高原都市で、いたるところに坂道があった。斜面に作られた家は三階建てのものが多かった。一階、二階は住居だったが、斜面にへばりついたような地階(ポロン)は倉庫として使用された。そのポロンを安く借りて生活する者もいた。
「外回りを一切禁止にしたって編集部全員に言っていたから、外回りをすればすぐにばれるから気をつけなさい」
「ありがとう。気をつける。でもどうして勝ち組、負け組の報道をしてきた新聞社の編集長があの騒動に触るなっていうのか、真意が理解できないよ。どう思いますか、安藤さんは」
「あなたはそんなこともわからないで取材をするから、ケタぐりを食らうのよ。あなた美津濃社長のことを聞き回ったでしょう」
 美津濃社長が円売りに関与したという噂に興味を引かれ、南米銀行やコチア組合のOBを訪ね歩いた。彼らから中田編集長に報告がいったようだ。
「もう知っていると思うけどさ、サンパウロ新聞からパウリスタ新聞は金銭面で助けてもらっているの。だからサンパウロ新聞のスキャンダルにつながるような話は書かなくても、取材すれば、パウリスタ新聞はつぶれるかもしれないのよ」
「それは過剰反応だよ。一面に回されて退屈だし、このままではブラジルにきた意味がないから日系史を勉強しようと思っているだけなのに」
「そんな言い訳は中田編集長には通じないから、もっと慎重にしなさい」
 安藤は児玉を諌めた。彼女の言う通りなのだろう。
「私もまだブラジルにきて七年しか経っていないけど、人間関係は複雑怪奇。リオの飲み屋でサンパウロの人間の悪口を言ったら、翌朝には本人の耳に届いていたなんていうことが実際にあるくらい。サンパウロ新聞の美津濃社長を悪く言う人はたくさんいるけど、内心では恐れている人もいる。日系社会には〈美津濃詣で〉なんていう言葉もあるくらいで、新聞社社主で影響力も大きい。パウリスタ新聞の安月給ではどうにもならなくて、編集部にも彼から金を借りている人もいるって噂があるくらいだから、気をつけなさい」
 事実かどうかはわからないが、取材は慎重に進めた方が良さそうだ。
 しかし、土曜日、日曜日に何をしようと文句を言われる筋合いはない。それまではパウリスタ新聞の名刺を使っていたが、ペンネームで名刺を作り、それを使うことにした。そのことまでとがめられるのなら、パウリスタ新聞を退社すればいいと思った。月給七千円でしかも遅配、日本の口座に振り込まれる安い原稿料でさえ、七万円から十万円はある。それで二、三ヶ月は十分に暮らせる。 (つづく)


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