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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第145回  

 

ニッケイ新聞 2013年8月24日

 

 マリアは出産後もアパートにいてもらうことにした。
 生まれた子供の名前の日本名はそれほど苦労することはなかった。日本に失望した二人が、サンパウロで出会い、希望を見出して結ばれた。そんな二人の子供に最もふさわしいだろうと「望」と名付けた。
「どんな意味なんだい」
 ソファで授乳をしている叫子の隣に、夕飯の後片付けを終えて腰を沈めたマリアが聞いた。
「ポルトガル語でいうとエスペランサの意味」
「望というのはいい名前だね。ところでブラジルの名前はなんてつけるんだい」
 ブラジルで生まれた子供はすべてブラジル国籍を取得する。望も当然はブラジル人で、日系二世ということになるのだ。
「ブラジルの名前は私に付けさせてくれる?」叫子が言った。
 叫子はこれまでに母親にあまえるという体験をしたことがなかった。出産直前からマリアに介助され、産後も育児についてアドバイスを受けたり、家事のすべてを任せたりして、いつの間にかマリアを「ママイ」と呼ぶようになっていた。
「ママイの名前に因んでマリオにしたいんだけど……」
 叫子が聞いた。
「望マリオか、いいじゃないか」小宮も叫子の意見に賛成した。
 名前が決まった翌日、カルトリオで出生届けを提出した。その場で出生証明書を発行してくれた。
 その出生証明書を持ってサンパウロ総領事館に小宮は向かった。国籍留保届を提出すると、日本国籍も取得することができるのだ。小宮望マリオは二重国籍になる。日系人から、ブラジル国籍だけだと、日本訪問する時に査証が必要になるので、日本国籍留保届を提出しておいた方がいいと助言されていたのだ。
 マリアは一ヶ月近く小宮のアパートに滞在し、叫子の介助とマリオの育児を手伝ってくれた。自分の家に戻ってからも、二、三日おきにやってきては、叫子の面倒をみてくれた。
 叫子にとってはマリアがまるで実母のようだった。フェイラで買い物をしていても、二人を見てほとんどの者が実の親子のように思うだろう。
 望は三時間起きに目を覚ました。その度にベビーベッドから望を抱きあげ、ベッドの淵に座りながら、叫子は乳を与えた。小宮も泣き声で目を覚ました。
「ママイがいうには、しばらくは数時間おきに目を覚ますんだって。寝不足になるようだったら、書斎の方で寝てね」
 何も答えずに小宮は、授乳する叫子と望を見つめた。
「私ね、日本では絶対に結婚できないと思っていたし、万が一結婚できたとしても子供は産まないつもりでいたの」
「うん」小宮は頷いた。
「だって生まれてからずっと、クロンボ、アメリカ人と言われ続け、ホントに石ころを投げつけられたんだよ。だから自分と同じような宿命を背負った子を産んではいけないと思っていたんだ。あんな悲惨な目に子供を遭わせるなら産まない方がいいって、そう思っていたんだ」
「でもブラジルならそんな心配は一切要らない。望には希望に満ちた未来が開けるよ」小宮が答えた。
「そうだね」
 満腹になったのか眠り始めた望をベビーベッドに戻し、叫子は再びベッドに潜り込んできた。そっと小宮の手を握った。
「この国なら生きられる。幸福になれると、私、今は心からそう思えるの」
「俺もそう思う」
 小宮も力いっぱい叫子の手を握り返した。

エスポーザ

 イビラプエラ公園で人目もはばからず抱き合っているカップルに、ブラジルに来たばかりの児玉は視線を向けていたが、そんな光景にも気を留めることはなくなっていた。バスに乗っても地下鉄の中でも、恋人や夫婦が抱き合う姿など珍しくもなかった。(つづく)


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