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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(74)  

 

ニッケイ新聞 2013年8月27日

 

 遠ざかる臣連の影

 まず、認識派史観がこだわる様に、これら地方で起きた事件も、臣道連盟の指揮によるものであったのだろうか?
 筆者は、事件の僅かな痕跡を追いながら、意識的に、臣連との結びつきを探した。が、探せば探すほど、臣連の影は遠ざかって行った。
 1946年3月のバストスの溝部事件に関しては「山本悟は臣道連盟員であり、連盟のテロである」と記す資料類もあるが、それを裏づける材料は、何も提示していない。
 バストスの近くのキンターナの住人で、既出の押岩嵩雄は、山本をよく知っていたというが、
「山本は臣道連盟員ではなかった」
 と筆者に断言している。
 まして、既述の様な異説も存在するとなると、
連盟のテロ説の確立は益々低くなる。
 同年4月にマリリアで起きた2件の襲撃事件に関して、筆者は、当時、同地に居住していた認識派の志村啓夫から、話を聞いたことがある。2008年のことで、志村は
サンパウロに住んで居って、93歳になっていたが、
「あの事件は臣道連盟がやった」
 と、しきりに強調した。
「臣連マリリア支部の青年部をつくった木村実取が、秋山秋水らを自宅に泊め、町を案内、主な認識派の家を教えていた」
 と。
 木村は事件後、警察に拘引され拷問を受け、志村は、その場に立ち会ったともいう。
 しかし志村の話では、木村が共犯者であることを自白したのか、有罪判決を受けたのか、いずれもハッキリしなかった。
 自白は、仮にしたとしても、拷問による場合は信用できない。
 志村は「(襲撃は)臣道連盟がやったことだ」と、ただ、それだけを筆者に押し付けてきた。
 百歩譲って、木村が共犯であったとしても、襲撃が臣連マリリア支部の意志であったかどうか?
木村個人の意志であったかもしれない。組織としてのそれであったら、支部の役員が起訴されていなければならない。が、そういう記録は見つからない。
 志村は、マリリアで起きた位牌事件で亡者にされた一人であった。そのためであろうか、60数年後の、この取材時点でも、感情的になるところがあった。

 8月にノロエステ線ビリグイ方面で起きた事件に関して、松家元祐という名が浮かんでいる。
 襲撃実行者の背後で糸を引いていた、と疑われていた。もし、この松家が臣道連盟と関係があったら……。
 が、その松家を知っていたという鳴海忠夫は「関係なかった」とアッサリ否定した。
 7月のノロエステ線カフェランヂア方面の事件でも、及川義夫という気になる人物が登場する。8月のパ延長戦マリリアの事件でも、この及川の名前が出てくる。当時40代。
 当人と親しかった阿部牛太郎(前出)によると、及川は、後年、こんな思い出話をしていた、という。
「サンパウロへ出て、オールデン・ポリチカから拳銃を30丁と弾を買って帰った。オールデン・ポリチカの警官たちは、犯罪者から押収した拳銃や弾を、裏でコッソリ売って小遣い銭稼ぎをしていた。
 その拳銃と弾はハイセン(認識派)との戦争に使うつもりだった」
 もし、この及川が臣道連盟員であったら……と筆者は想定した。ところが、この時、阿部が、こう答えたのである。
「及川は連盟に入っていた」
 筆者は、思わず阿部の顔を見直した。が、阿部はこう続けた。
「ただし、入ったのは、事件のずっと後、彼が獄中に居った時のことだ。それ以前は関係なかった」 (つづく)



 

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