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「破天荒」に込めた想い=醤油の上田家と勝ち負け

ニッケイ新聞 2013年9月11日

 「臣道聯盟のように〃勝ち組〃という組織は確かにあったけど、〃負け組〃という組織はなかった。まるで二つが競り合っていたかのように新聞に書かれることがあるけど」と疑問を呈するのは、バイーア州在住の上田稔(みのる)さん(85、香川)だ。上田さんが出聖した折、終戦当時の事情を聞いた。
 稔さんの父盛一さんは瀬戸内海の高見島の、村一番の金持ちの家に生まれ、1926(大正15)年に渡伯した。当時、醤油屋といえばカフェランジアの藤沢とプロミッソンの黒島だけだったのをみて、「ノロエステ線3千家族には二軒では足りないはず」と考え、家財を全て売り払って帰りに旅費を作り、盛一さんは故郷の醤油蔵で醸造法を習い再渡伯した。
 そして、グアラサイーの町から数キロ離れたアグア・ベレーザ植民地で1930年に丸一醤油を創業したという。病気がちな夫に代わって、気丈なイセ夫人は戦前、女性としてはごく珍しかったトラックの運転免許を取り、醤油樽を積んでマリリア方面まで販売して廻った。
 終戦直後、盛一さんが客に『日本は負けてしまった』と言ったとの話が植民地に広まり、突然、青年会や日本人会が臣道聯盟の支部になってしまい、村八分状態にされたという。
 「あの頃、植民地で『負けた』と言っていたのはパパイだけ。近くのリンスやプロミッソンのような日本人が多かったところでもわずか数人でしょ。それに特に連絡もない。とてもじゃないが〃組〃という組織ではなかった」と振り返る。
 その上、父の友人が臣道聯盟支部の集会に参加した折、「パパイの名がリスタ・ネグラ(暗殺リスト)に入れられていると、こっそり教えられた」という。
 聖市には終戦当時、認識派グループがあり、敗戦後の祖国の情報を伝える機関紙を発行したり、パウリスタ新聞を創立したり、祖国に救援物資を送る運動を起こしていた。だから一見すると、〃負け組〃という組織があったかに思えたが地方部においては、各人が孤立した状態だった。
 「負け組を殺したら金鵄勲章がもらえる。日本から引揚げ船が来たら無料で連れて帰ってもらえ、ジャバとかスマトラとかの南洋に好きなだけ土地がもらえるって、そんな噂が当時植民地に広まっていた」という。
 「パパイは拳銃を2丁かって両親が1丁ずつ携帯した」という。さらに父は稔さんにも、こう言った。「もしパパイを訪ねてきた人がいたら、『いない』と答えなさい。もし『居らんはずはないだろう!』と無理やり押し入ろうとする人がいたら迷わず撃ちなさい」。
 「マリリアの丸山醤油の人は、生きたまま葬式挙げられて、棺おけ作って町を練り歩かれたって聞いたよ」とも。世事に精通した商売人には認識派が多かった。
 「以前に掲載されていた『暁に向かって』には、山本喜誉司さんが密かに円売りに加担したかのような疑惑まで書かれていた。なんの資料も持っていないが、そんなことないと思う」と認識派を親に持つ子孫の気持ちをぶちまけた。
 戦後1953年頃から聖市に出荷しはじめて進出を決め、1960年にイピランガ区に工場を建てた。品質の良さで有名になった丸一醤油は60年代に一世を風靡した。しかし、70年代に経営に支障が生じて72年に手放し、武用家に渡った。
 盛一さんは自慢の上級品質の醤油に、今も残る「破天荒」というブランド名をつけた。稔さんは「天が破れるぐらい美味い、そんな気負いが感じられる名前」と解説する。バイーア在住の今でも「僕は破天荒しか使いません」とも。
 でも、当時の勝ち組から八部にされて張り詰めていた状況を〃荒々しく打ち破り〃たい——そんな盛一さんの密かな想いもこもっていたかもしれない。コロニア日本食業界の〃隠し調味料〃的逸話といえそうだ。

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