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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (124)=感動の入植百周年記念式典で=日系人と地元住民の協力の賜

ニッケイ新聞 2014年2月13日
父シゼナンドへの百周年顕彰を受け取るロランドさん(右)

父シゼナンドへの百周年顕彰を受け取るロランドさん(右)

1987年1月、妻松枝がガンで永眠した時、黒瀬泰(とおる)が葬儀の挨拶で「ブラジルに一緒に行けなくてごめんなさい」といったのを、娘の京田三恵(みえ、65)=千葉在住=は印象強く覚えている。そして1カ月後、後を追うように泰も永眠した。

父が母を連れて行けなかったレジストロへ、娘の三恵は足を踏み入れた。「母に見せたかったものは何か」。三恵はそう自問しながら2回も来伯した。自分の眼で見たレジストロは「父が言っていたように、おだやかな良い場所でした」という。「未開の地を住みやすくするために、大変な努力をされてきたことは、父からも何度も聞いております。ただただその地道さに敬服します」。

13年10月31日のイグアッペ、レジストロ、セッテ・バーラス入植百周年式典にもわざわざ来伯出席し、「レジストロに行ってみたかったという母の思いのこもった着物を着て、100年祭に出席できて良かった。父が気にしていた現地で志し半ばで亡くなられた方の慰霊祭に出席し、港の見える墓地の墓参できたことは、レジストロの皆さんのおかげだと感謝し、両親の墓前にも報告しました」という。

☆   ☆

「スルプレーザ(驚き)だった!」。その入植百周年式典で顕彰されたシゼナンド・デ・カルヴァーリョ(Sizenand de Carvalho、1903―1997)の息子ロランド・イラプアン・デ・カルヴァーリョ(Rolando irapuan de Carvalho、 80)は、そう言って誇らしげにほほ笑んだ。

終戦直後、レジストロには最初の日系団体RBBCが誕生し、その初代会長がシゼナンドだった。同地初の選挙で選ばれた市長(1948年から51年)と言った方が一般的には有名だ。

父と日系社会との関係を尋ねると、息子は「パパイは最初KKKKで働いていたんだ。その後、1934年から書記(escrivao)になった。だから最初から日系人とはたくさんアミザーデがあった」と説明した。34年にイグアッペ郡パス・デ・レジストロ区になってから同区書記として20年を過ごした。

ロランドは「大戦中には警察の書記もやっていた」と証言する。「日本移民はラジオの所有を禁止されていたから、パパイのところに預ける人がいて、いつもこっそり3台ぐらい預かっていた。その一人がパパイと仲の良かった出利葉だ」と懐かしそうに振り返る。前節のマルチンスの母のような地元伯人が何人もいたに違いない。

戦争中に海岸地帯から枢軸国移民立ち退きを命じた時、地元伯人有力者数人が「例外扱いにしてくれ」と懇願したとの話を聞いたことがあるかと尋ねたが、「父からはそんな話は聞いたことがない。でもありえるね」とだけ語った。マルチンスの母と同様、それを語り継ぐような気持ちを持たなかったのか。

47年の最初の市長選挙で候補者はシゼナンド一人だった。まさにこの時にRBBC初代会長に就任していた。ロランドは「おそらく選挙運動にも日本人が手伝ったでしょう」と推測する。

『Os Bastidores do Poder』(権力の内幕、Selmo `Mimo` de Oliveira著、02年、134頁)によれば、1947年時点のレジストロ市の有権者のうち日系人の比率は現セッテ・バーラス地区では720人中55人、現レジストロ地区ではなんと874人中559人を占めた。計1594人のうち614人だから大きな比率だ。日系市長を出すことすら可能だった。はずだが、そんな選択肢はなかった。

シゼンドは市長退任後、55年に第一公証役場(Cartorio de Notas e Oficio de Justica)の書記に任命され、以後79年まで23年間、堅実に勤めあげて定年退職した。

ロランドは「この町では最初から日本人とブラジル人は友好的な関係を築いてきた。戦前、病院は海興がつくったものだけ、電話があるのはその学校だけだった。この顕彰をもらって絆を再確認できてうれしいよ」とうなずいた。(つづく、深沢正雪記者)

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