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島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(2)=石畳建設で100米に一人犠牲=島の初期住人はラトビア人

アンシェッタ島は、今はサンパウロ州自然保護局の管理下にあり、自由に一般の者も出入り出来る観光地の一部になっている。知っている人も多いと思うが簡単にその場所を書く。
中央線のタウバテから観光地のウバツーバを経て、それから約10キロほど離れたエンシャーダの船着場から、大型モーターボートに乗れば50分程で渡れる。私たちの居た頃は丸木舟で渡るか、サントスから来る島の生活用品を運ぶ定期便を利用するしか方法はなかったのである。
ウバツーバからエンシャーダに通じる道は、今ではアスファルトで舗装されているが、当時は石をならべた、やっと牛車か小型車が通れる道路しかなかったのである。
その岩を割り敷きならべて、その様な道路にしたのは島の囚人が利用された。サルゼント(編集部註=軍曹)が若干の部下と囚人と共に、天幕で寝起きして森の中にあった山道を広げ、石を切り出して敷き、どうにか小型車が通れる様にしたのであるが、完成までには悲惨な事が沢山あったのである。
島に居た頃、その工事に参加させられた囚人の生き残りが二人居た。当時の事はあまり話したがらなかったが、一人が或る時話してくれた。海辺の岩を楔で割り、それを場所まで運び上げる重労働で、彼の話が大きかったのかも知れぬが、道路100メートルに一人位の行方不明と死者が出たと話し、何か思い出したのか身を震わせてその後は話さなくなった。
一本の山道の海岸特有の樹木の茂った杜、脱走者もかなりあったそうだ。彼の知る範囲では連れ戻された者は僅かで、「あとの者はどうなったか知らない」と云っていたが、余程ひどい事があった様だ。
これ以外にも暗い話が多くあったのだ。刑務所建築は何時であったか聞きもらしたが、多分第一次大戦頃であったと思う。
その頃、囚人以外にも悲しい出来事があった事を島の老人から聞いた。第一次大戦後、露国の赤化革命で破れた帝政派であったレトニア(編集部註=日本語では「ラトビア」)の軍人及び官吏達が逃れて南米に来る様になった。比較的余裕のある家族はパラナ州に、或いはバストスの近くのヴァルパ植民地に居を構え、自給自足の共同生活を営んだ。
同植民地のパルマ農場に1942年頃、部落の責任者の許可を得て見学に行った事があった。殆ど板作りであったが、医療所もあり年老いた女医が居り、広場の中央には教会や共同食堂等があり、面食らったのはトイレであった。後に改築されたそうだが、その時は男女別であったろうが、横に長い小屋があり、仕切りはなく10人程満員の時は揃って用をたすのである。
共同生活であったので「共産村」と云う人もあったが、祖国の赤化によって逃れてきた人達であり、皆で力を出し合って共同作業をして居り、その故で共産村と云っていたのだろうと思う。
戦時中で燃料も統制されて居り、ツパンの町に村で生産された農作物や乳製品を、北欧の写真などで見る手製の頑丈な木製の車輪のついた馬車で売りに来ていたものである。
パラナに向かった難民の方の動向は、私は知らぬ。どの様な理由があったものか、現在の様に難民を保護する機関のない時代であったので、地位も余裕もない人達であったのか、何一つ設備のないアンシェッタに上陸させられ、船着場から離れた砂浜の裏にある小高い丘に掘っ立て小屋を建て生活していた様だ。住民のカイサーラ(編集部註=漁師)の古老の話によると、自給生活の方法を知らぬ帝政時代の官吏達で食糧不足となり、子供達は島に自生する黄色い木の実を食べ、又マンジヨカ・ブラボ(編集部註=キャッサバ)を毒抜きせずに食べたり、栄養不足などで病に倒れる者が続出し、医療機関などなく、多くの死者が出て、近くの砂地に埋葬したとのことだ。(つづく)

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