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島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(1)=ブラジル近代史の現場に=118人死亡の大反乱の舞台

「ブラジル版アルカトラズ島の反乱から60年」と報じる2012年6月24日付エスタード紙

「ブラジル版アルカトラズ島の反乱から60年」と報じる2012年6月24日付エスタード紙

聖州海岸北東部にあるアンシェッタ島は逃亡絶対不可能な〃監獄島〃として、奇しくも第1回移民船笠戸丸と同じ1908年に創設され、最初は軽犯罪者が送り込まれた。それが、ヴァルガス大統領時代の1930年代から特別な重罪者や政治犯が収容されるようになり、それゆえ「ブラジル版アルカトラズ島(米国の有名な軍事監獄)」と呼ばれるようになった。
終戦直後の勝ち負け抗争時、政治警察は勝ち組の最大の派閥だった臣道聯盟の指導者に日の丸や御真影を踏ませ、拒否した者をその島に送った。1946年中頃から1948年に釈放されるまでの2年余り収監されており、それを〃島流し〃と表現する。
その数、実に170人。ただし、実際に認識派要人殺害に関わった実行者10人も含まれていた。その一人が、抑留者の最後の生き残り日高徳一さん(88、宮崎)=聖州マリリア在住=だ。そこでの抑留生活は2年7カ月に渡った。彼はその間の出来事を思い出し、2013年4月に約一カ月かけてつづった。
監獄内の扱いのあまりの悪さに、1952年6月に大暴動が起きて118人(囚人110人と看守8人)が死ぬ大惨劇に発展し、3年後に閉鎖された。これは1992年のカランジルー刑務所大虐殺が起きるまでは、伯国史上最悪の刑務所虐殺と言われた事件だった。反乱時の看守の大半は、日本移民抑留時に居た者たちだったはずであり、ブラジル史上に残る一時期を勝ち組面々はこの島で過ごした。
日高さんの手記によれば、そんな劣悪な環境の中でも日本移民は自制心が強く、意外に穏やかな生活をしていた。ただし一触即発の場面も何度か迎えていた――。手記の内容はあくまで日高さんの主観であり、一方的な記述や見方も一部あるが、ブラジル史の〃記録〃としての重要性を考え、そのまま掲載した。
この原稿は昨年10月に伊藤エジソンさんが、弓場農場の矢崎正勝さんに渡し、矢崎さんがパソコン入力した。日高さんの許可の上、編集部で句読点を補うなど若干手を入れた。以下、手記の本文となる。(編集部)

「島流し」と云うと、国法を犯した者と世の中のさまたげになる者達が送られるところである。コルシカ島、旧佛領ギアナにあった監獄であり、日本でも私の知るところでは沖の島、佐渡が島、八丈島があった。それに流される者は領主の意にそむいた者とか、罪を犯し人別帳からはずされた無宿人の流されるとのことであって、打首に次ぐ重刑人の集まるところである。兎に角、世の捨て人の送られる場所である。
その様な流刑場が七十年頃前まで、この国にも実在していたのである。その一つはリオ州のイーリャ・ダス・フローレスである。その島は要塞もあり、そこにはどの様な獄舎があったか知らぬが、日伯間の国交が断絶した時期、在伯邦人間の有力者(編集部註=戦後「天声人語」の名コラムニストとして知られた朝日新聞特派員の荒垣秀雄らが収監された)が一時収容された事があるが、余り知られていない。
この島のほか、サンパウロ州でもリオ寄りのアンシェッタ島に流刑場があったのだ。州内の極悪人、脱獄常習犯や、今はこの罪名はなくなったがバジアゼン「無宿者」と云われる浮浪人が送りこまれる牢獄であり、そこの所長は軍警大尉で生殺与奪の権を持っていた。その昔、地方の牢の囚人達から、島に送られると生きて帰れぬと恐れられていた場所だ。(つづく)

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