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入植5周年を祝った松原移住地(松原移民・梅田幸治さん所蔵)
入植5周年を祝った松原移住地(松原移民・梅田幸治さん所蔵)

ドウラードスの和歌山県人=61年目迎えた松原移住地=ただ一人残る那須千草さん

知事を迎える那須千草さん。松原植民地に今も住む唯一の松原移民

知事を迎える那須千草さん。松原植民地に今も住む唯一の松原移民

 松原移住地には1953年に第一陣が入植。全部で64家族が入植し、そのうち60家族が和歌山県人だったという。しかし、市中心部から約75キロ離れた松原植民地には今、一家族しか住んでいない。数年前までは残っていた日本人会の会館も、今は跡形もない。
 同移住地は、戦前移民の和歌山県人・松原安太郎氏が、ヴァルガス大統領(当時)と直接交渉して特別に移民枠を取り付けて実現した、いわくつきの場所だ。
 今も唯一、移住地に住む那須千草さん(69、田辺市)が到着した一行を出迎えた。感激した様子で知事と議長を自宅に招きいれ、「たいへん光栄です。娘や孫に、知事さんが家に来てくれたことを伝えたいと思いまして」と並んで写真に納まりながら嬉しそうにいう。
 知事が「入植時のご苦労は図りきれないもの。大変だったでしょう。何十年のご苦労が固まってできたようなお家。県民の誇りです」とねぎらうと、「自分だけここに残ったというのは、不思議な気持ち。私は主人についてきただけなんです」と微笑んだ。
 53年、9歳のときに家族で移住し、同じ和歌山県人の勝さんと結婚。60年間、二人三脚で歩んできたが、2010年に死別した。「飛躍を目指して他へ行く人もたくさんいた中、主人は『自分たちはここで生活できた。どこに行かなくても良かったということは幸せだった』と話していました」とふりかえる。
 入植当時のことを尋ねられ、日本では「最初から地主と羨ましがられました」と振り返る。来てみると確かに30町歩ずつの土地はもらえたが、家どころか道もないところだった。そこから60年が経ち、今もその土地を守り続けている。
 母県のニュースはテレビやインターネットでチェックしているので、初めて会うはずの知事だが、顔には見覚えがあったという。
 那須さんは「今日は記念すべき日。知事さんに魔法瓶のじゃなくて淹れたてのコーヒーを飲んでもらいたいと思って」と言いながら、入植当初の60年前に庭に植えたコーヒーの木から摘んだ豆を、その場で挽いた。湯がこぽこぽと注がれると、台所にかぐわしい香りが立ち込めた。品種名は「ノーボ・ムンド(新世界)」だとか。
 台所の壁の一面にかかる大きな黒板について尋ねると、「コロニアの子供を集めて日本語を教えるときに使っていたもの」だという。往時を偲ばせる一品だ。
 手入れが行き届いた広い庭には果樹などがぎっしりと植えられている。コーヒー、マンジョッカ、みかんやパパイヤ、ジャブチカバ、無農薬の納豆も作っている。
 民間訪問団として初来伯した和歌山市民図書館に勤める中谷智樹さんは、暑い時期には湿気が高くなる日本と比較し、「暑いけど乾燥したブラジル独自の空気を吸えたことだけで感動です。広大な大地で、松原移民の方の畑を実際に見ることができて感無量です」と感動した面持ちで話した。


3年で解散したクルパイ=「松原より土地悪かった」

 クルパイ(和歌山)植民地は当時、竹中儀助氏らが中心になって、58年にドウラードスから180キロ奥に建設された。58、59、60年と3回に分かれ、県人を中心に計48家族が入植した。今ではそこを出てドウラードス市内に住む人が多い。
 そんな和歌山県人が集まった同会支部の活動は忘年会や新年会、冠婚葬祭の行事などが中心で、一世が中心だ。8割が松原、クルパイ移民だが、中には戦前移民もいる。
 同市内に住む芝田全弘さん(69、田辺市)は、59年に入植して8年目の大霜で同市内に出て1年、その後にいったん出聖したが、4年前にドウラードスに再び戻ってきたという。入植当時のことを尋ねると「まあ、とにかく、よくここまで来たもんだよね」と目を細めた。「事前の話では『家もあってコーヒーの木も植えられている』と聞いていたが、実際は何もなかった。そりゃ大変でしたよ。だからクルパイは3年で解散してしまった」としみじみと思い出す。
 クルパイの第一陣は旧移民、第二陣は新移民と呼ばれた。「僕らが来た時は、松原移民の人が先に家を建てていてくれた。谷口さんのお父さんとかがね」と弟の賢次さん(64)は言う。最初の頃は同じ家に2家族が住んでいた時期もあった。
 植民地の面積は3千ヘクタールもあったが、「土地が悪いといわれた松原移住地よりもさらに悪かった」という。しかもドウラードス市内から「昔は移動に1日かかった」と言う。「当時、350キロ離れたマリリアからここに来た時、飛行機の上から見たら密林で、よい土地に見えたんじゃないですか」と笑う。その一帯は、今ではほとんど牧場に変わっているという。
 中野一男さん(70、みなべ町)も59年に来伯したクルパイ移民だ。一時は青年会もあり、演芸会が催されるなど活気がある時期もあったと思い出す。「48家族いましたが、僕がいた頃は結果的に2家族になりました。とにかく不便なところだった。道が悪かったし。家族を養わないといけなかったパパイが本当に可哀想だったね」。
 10年後に、現在も住むグローリア・デ・ドウラードス市に移った。こちらには日本人会があり、約30家族が住む。「会館は立派ですよ。この辺では一番じゃないですか」と誇らしげな表情を浮かべた。

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