ホーム | 特集 | 世界一住み良い国ブラジル=樋口四郎

世界一住み良い国ブラジル=樋口四郎

特集 コチア青年移住55周年・花嫁移住51周年

ニッケイ新聞 2010年10月23日付け

 50数年前の今頃、悪がきの「青二才」の青年は、ろくな物も食べられず、しかし常に将来の希望に満ちた夢を胸に描きつつその実、先の見通しは今一つ見えない虚脱感にぼんやりしていた。 
 そんなある日、農業組合から手紙が届いた。受け取り人は兄になっていた。表書きは南米移住について、とある。さいわいにも封が半ば開いている。この時、勘がひらめいた。誰も居ない.件の封筒をそろり、そろりと開いて中を見て、なるほど兄貴も海外移住を考えていたのかと知った。 
 外は雨が降っている昼食時であったと思う。我が家は兄1人、弟2人、妹3人、祖父母と父母の11人の大家族である。
 兄でなくても、日本全国の健康な青年なら皆、誰でもが考えて不思議ではなかった。そう言う私も例外ではなかった。この時、咽から手の出る程慾しい物が手に入ったような気がしたのだ。 
 早速、町役場の門をくぐった。係員から、南米ブラジルのコチア産業組合という日本人の農家で戦前移住者の後継者募集の説明を聞いたのである。幸いにも次男坊優先である。 
 早速家に着くや、申し込み書に記入を始めたのである。兄が帰宅後、手紙は来なかったかと尋ねていたそうだが、素知らぬ顔をしていた。 
 約1週間か10日後に呼び出し状がきたが、私自身への通知である。勿論、兄は家を出ることは許される筈がない長男である。私は次男、棚からぼた餅である。この日から私の隠密行動が始まった。役場は私が次男であるから何にも疑わずに受付けて済ませた。 
 さて、はたと困ったことは保証人である。家では私が海外移住のもくろみを誰一人として知らない。私が勝手に伯父伯母の名を書いておいたが、事後承諾で通す自信があった。それには訳があった。
 実は伯父夫婦には子供がいない。従って私達の中の一人を養子に迎えることになっていて、その候補に私も入っていたのだ。しかし、私の誠心誠意の信念と懇願で、家族が許すならを条件にハンコを押してくれたのである。 
 話はトントン拍子に進み、宮崎県の今年、口蹄疫病で大被害を受けた高鍋伝修農場で研修となるのであった。 
 しかし、その実、父母と祖父母は腹の中で、いい出したら聞かぬ奴だから行かすが、どうせ合格はできまい、その方が反対するより本人が納得するだろうと、たかをくくっていたとか。「善は急げ」その日のうちに書類は提出できた。父母の考えでは、書類提出の段階で農業に充分な経験のない次男坊がまさか通過できないと思ったそうである。 
 ところが一次は通過。宮崎県高鍋伝修農場でのブラジル農業の研修に参加した。 
 それでも父や家族は、まだふるいで落とされると信じていたそうであるが、これも見事、合格したのである。 
 研修中は優等生ではなかったらしく、係員に特技があるかと問われ、機械修理が「大好き」と答えたが、(本当は苦手と)係員には見抜かれていた。その「ずぶとさ」を買われて渡伯させたものと思っている。 
 こうして周囲の反対など「なんのその」。鼻唄機嫌でコチア青年第一次第七回の一員として渡伯した。 
 航海中の赤道祭では大王の使者をつとめ、長袴は上手にさばいてみせた。 
 上陸後、モインニョ・ベーリョ試験場で最初の夕食。「そうめん」と「おにぎり」のおいしかったこと。この時からブラジルが大好きで、世界一住みよい国の信念は一度も変わりなく、現在に至っている。 
 その後は4年間の契約農年を無事に果たし、喜怒哀楽と波乱万丈の道は皆さんと同様である。 
 その中でも一番の思い出である、コチア青年二世訪日研修に4人の子供達を次々に送り、母国日本の父母に親孝行できたことは大変嬉しく思っている。 
 その子供達も全員大学を卒業し、今はそれぞれ2人ずつの孫を授かってブラジル々民として社会に勤め、お世話になっている。その孫達が訪日研修のできる時がきている。
 1984年、私たち夫婦は初めて訪日できた(現在二世妻と結婚43年になる)。 
 その時、母県の福岡県知事の招待で、留学中だった3女(中学1年生)ともども議員会館で昼食を頂き、歓談の栄を受けたことは、生涯の思い出として今も大事にしている。 
 そのほか、熊本県、岐阜県、福島県、北海道などゆかりの地で大歓迎を受けた。 
 実家では、父母が日本でしてやれなかった結婚披露宴を、20数年振りの子連れ訪日夫婦の為に兄弟と一緒に企画、盛大に開いてくれた。一生の思い出として大感激であった。 
 私達の結婚はノロエステ線ミランドポリスのサンパウロ産業組合中央会種鶏場勤務中。勝ち組カチカチの老人のお世話で結婚できたのである。
 その時、私は結納金もなく、後で知ったが、妻の話では沢山の結納金だったそうで、嬉しかったが嫁いで見たら「文なし」の貧乏青年で、呆れたそうである。このような時に、仲人や嫁の家族のお陰で盛大な式をあげることができた。
 その時に父母が訪伯できなかった埋め合わせの為に、日本で披露宴を盛大にして共に喜びをわかち合ったもので、心から感謝している。自画自賛で恐れ入ります。 
 その後、私は事業に失敗してしまい、自業自得だったと思っている。 
 決してほめられたものではないが、現在カンピーナス在住で大なり小なりみなさまのお世話になって、気付けば早や、75歳。妻と2人の年金生活は自由気ままだが、お金も気力も無く、日語新聞の投稿欄に書いてみたり、「乞われて名乗るもおこがましいが」と、ご用に応じて、社会奉仕と健康維持を願って行動させていただくのを日課となっている。 
 大金を持っていても、お金が無くても、本日が毎日「幸せだなぁ」と思っていれば最高であると思う。 
 「勝ってくるぞ」と、勇ましく飛び出した日本では、難問山積で解決できず大変です。心からご繁栄を祈るのみである。
(元カンピーナス文化協会副会長)

image_print