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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(20)=「生まれ故郷で死にたい」=失意のまま妻と療養に帰郷

大谷晃(『在伯日本人先駆者傳』パ紙、1955年、451頁)

大谷晃(『在伯日本人先駆者傳』パ紙、1955年、451頁)

 松原が横浜正金銀行の大谷晃と知り合い、その凍結資金を一時的に移民事業に流用する計画を練ったが、ヴァルガスから拒否された―と志村が書いている件に関し、大宅壮一はこう書いた。
 《戦時中に凍結されていた正金銀行の金八万コント(今は半分に下がっているが当時は八億円位になった)をブラジル政府から解除してもらって、移民会社を作ろうとする計画が、アルべスと松原の間に進められていたのだ。この計画と共に大統領のメッセージを携え、二人で日本に行こうとしたところ、反対党の新聞にバクロされてオジャンになった。松原は、やむなく一人で、しかし〃移民四千家族〃の〃大朗報〃をもって日本に行き、日本移民の成功者、功労者として、天皇に拝謁を許されるほどの大歓迎を受けた。ところが、彼の手で入った〃松原移民〃というのは、入植後脱走者が続出し、さんざんな状態になった。おまけにヴァルガスが自決して、約束されたブラジル側の援助は打ち切られ、一切の責任を負わされた松原は、三千万円の債務を負って日本に引き揚げた。私が会ったときは、ひどい神経衰弱にかかっていると自分でいっていた》『世界の裏街道を行く 南北アメリカ編』31~32頁)。
 志村の論調からすれば悪意すら感じられそうな松原の悪評を、誰が大宅壮一に吹き込んだのか――。それは、松原に「移民枠の譲渡又は合弁」を申し込んで断られた〃コロニアの元老達〃だった可能性が高い。実際、大宅壮一をサンパウロ市で接待し、現地事情を説明したのはその周辺の人物だった。
 パ紙が「松原の金が暗殺資金」と断じる論調にしても、大宅壮一にしても、〃コロニアの元元老〃からの隠然たる影響が伺われ、結果的にそれが松原への偏見を後世に植え付けた可能性がある。
 実際、ウナや松原植民地の脱耕者から悪評を立てられ、ヴァルガスの件ではブラジル社会からも犯罪者扱いされた。だから〃コロニアの元老達〃の影響下で戦後編纂された移民史でも大きく扱われることなく、評伝の類も書かれなかった―のかもしれない。
 そんな〃コロニア伏魔殿〃にも揺さぶられ、心身ともに疲労困憊した松原は、ヴァルガスが亡くなったショックと、自分への重圧から脳いっ血を起こしたようだ。
 親友の死後の1年後の55年8月25日、《脳いっ血で話もできない状態で、妻マツに付き添われて日本にたどり着いた。(中略)この3年間は命を縮めるほど過酷な年月であった》(『移住研究』24号、22頁)。3年前の栄光の〃錦衣帰国〃時に、誰がこんな展開を予想できただろうか。
 その時のことを祐子さんは「もうここにはいたくない。自分の生まれ故郷で死にたいと言って帰った。すべての財産を私の夫に預けてね」と振りかえった。
 1954年8月のヴァルガス死後、副大統領のカフェ・フィーリョが昇格し、敵対派UDN(民主連合)が彼を擁立して翌55年10月の大統領選に臨んでいた。そんな55年8月、日本へ行く前に松原は、鎌倉かおるさんの母に「JK(ジュッセリーノ・クビシェッキ)が大統領になったらブラジルに戻ってくる」と話したという。
 選挙の結果、ヴァルガス派のJKが見事当選し、56年1月に就任した。彼は「50年を5年で」のスローガンで、ヴァルガスの志とカリスマ性を継ぎ、ブラジリア遷都などを果たし、今も人気の高い政治家として知られる。
 しかし、松原の方の体調は戻らなかった。そのままブラジルの土を踏むことなく、61年12月に故郷で亡くなった。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)

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