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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(23・終)=在伯同胞の心に大きな灯り=帰国翌年に黄綬褒章授与

宮中で黄綬褒章を授与された松原氏とマツ(『ブラジル紀州人材録』グラビア)

宮中で黄綬褒章を授与された松原氏とマツ(『ブラジル紀州人材録』グラビア)

 気丈な女性として知られた妻マツは、夫安太郎を看取った後、子供たちと暮らすために一人で再びブラジルに戻り、93歳で亡くなるまでクイアバで過ごした。
 マリリア在住者によれば松原耕地の初期のころ、コロノへの給与支払いが遅れたことがあった。パトロン宅に労働者が大挙して「松原を殺してやる」と息巻いて交渉に来た時、若かったマツが前に立ちふさがり、「私を殺してから行け!」と啖呵をきり、スゴスゴと退散させたことがあるとの逸話を残したという。
 戦後移民再開に向けて人事を尽くし、天命が下されたように故郷和歌山で亡くなった夫を、マツはどんな気持ちで看取ったのだろうか。
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 『アグロナッセンテ』誌(1992年3月、60号、30~39頁)の志村啓夫の記事を紹介する冒頭の文章には、こうある。
 《第二次世界大戦後の日本からブラジルの移民が再開されたのは、まったくサンパウロ州マリリア在の松原安太郎氏個人の力によるものだった。この戦後移民は約二〇年間続き6万名のものが渡伯しただけで終わった。ただ、戦後の暗澹たる状況だった日本に、この「ブラジル移民再開」の報がどれだけ明るさを与えたかは、計り知れなぬ大きなものだった》と書かれている。
 終戦直後、600万人以上が外地から本土に引き揚げ、ベビーブームとなり、移住先を必死に探していた日本政府にとって、松原がもたらしたブラジル移民導入許可は天啓にも似た朗報だった。それは、勝ち負け抗争で二分して荒れた世情のコロニアにおいても同じだった。戦後移民再開の報によって、祖国との縁が切られたかと絶望していた在伯同胞の心に灯りがともった。その功績だけでも移民史にとって大きいものがある。
 《1956年2月11日、日本政府は戦後ブラジル移民再開の功労者松原安太郎に黄綬褒章を送る》(人文研年表124頁)。松原は「衆民の模範」を対象とする黄綬褒章を授与された。それだけの功績を日本で認められながら、コロニアではどうか…。
 その功績を伝えるのは、祐子さんら家族の公伝、志村啓夫さんら親戚、日本側のわずかな研究者が書き残したもののみ――。まさに命がけで戦後移民導入の先鞭をつけた松原の功績は、〃毀誉褒貶が多い男〃という評判の中で、あまり強調されることなく忘れられようとしているようだ。
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 祐子さんは「日本人に移住の扉を開いたリーダー。正直で間違ったことを認めない、尊敬に値する、すべての意味で理想的な人物だったと私たちは聞いている。姑はとても誇りにしていたし、松原家の皆がそうよ」。子孫の間ではこのように尊敬の念を込めて語り継がれている。
 リオ・フェーロ植民地には現在でも2家族が住んでいるという。今ですらそうであれば、開拓当時はどれだけ利益採算を度外視した出資をしたことだろうか。
 一方、南麻州ドウラードスの松原移住地には1953年に第一陣が入植。全部で64家族が入植し、そのうち60家族が和歌山県人だったという。それから61年目、今年4月に和歌山県知事が初訪問した。現在は一家族が住むのみ。数年前まで残っていた日本人会館も今は跡形もない。
 松原が切り開いたそんな痕跡はわずかだが残っている。今はわずかでも60年前には移民史上、重要な意味があった。そんな歴史を風化させてしまっていいのか――。
 祐子さんは亡くなった夫との間にできた4人の子供、8人の孫、一人のひ孫に恵まれ、地元の日本人会にも参加しながらクイアバで暮らし、50年になる。「皆、私を尊敬してくれるし、リオ・フェーロ時代の人と仲よくやっているわ」と朗らかに笑った。祐子さん自身は実は夫の父に直接会ったことはない。姑から聞いた話を子や孫に話して聞かせている。
 同地で6月に行なわれたW杯の日本代表コロンビア戦もテレビで観戦した。自宅の壁には、ヴァルガスと松原が固く握手をする写真が、誇らしげに飾られていた。(一部敬称略、田中詩穂記者取材、深沢正雪記者補足、終わり)

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