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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(4)=「彼の鍬は普通の2倍ある」=渡伯20年後には大農場主に

 1918年7月末から約50日間に渡って日本では米騒動が起き、全国に波及した。松原の故郷和歌山県では、民衆を扇動した罪で二人が死刑判決を受けるなど荒れた世情があった。それを受け、食糧難にあえぐ日本政府は盛んにブラジル移住を奨励していた。祐子さんはそんな状況が松原の決断を後押しし、「ブラジルに行き、そこで人生を送ると決めた」のだと見ている。
 松原は除隊後にマツさんと結婚し、米騒動の真っ最中の9月6日に讃岐丸で神戸港を出港し、10月26日にサントスに入港した。そのすぐ後、11月11日に第一次大戦が終結、ブラジルは戦場となった欧州への輸出で大儲けをし、景気が良かった時代だ。
 祐子さんは、松原の妻マツさんに関し「士族の出身で、より良い人生を送りたいと願っていた意識の高い女性だった」という。「サムライの家は裕福じゃなかったでしょ。ブラジルに行きたいと考えていた2人が出会って結婚し、やってきた。彼女は当時19歳だった」。戦前移民としては例外的に出稼ぎではなく、夫婦で永住を目指して渡伯したという。
 「彼(松原)は賢い人だったから、船の中で皆が娯楽に興じている中、彼はポルトガル語を勉強していたの。船の中ですでに通訳もやっていて、サントスに降りた時は既にかなり理解していた。60日間の旅だったから。だから、彼を選んだ農場主はコロノとしてではなく通訳として雇ったの」と祐子さん。
 パウリスタ線ピラチニンガ駅サンタカタリーナ耕地に配耕された。その農場主に松原は「お金はほしくない。ほしいのは土地。自分はブラジルで人生を成すと決めてきた。だから、この土地の一部をもらいたい」(祐子さん談)と言った。そこで約3年働き、土地を受け取った。
 戦前、松原は耕地の通訳を務める一方、借地農として棉作に従事して少しずつ貯蓄をし、1928年4月、マリリアに土地を買って移り住んだ。「一定の資金があったから、当時町としては始まったばかりだったマリリアでシッチオを買った。そこでも懸命に働き、少しずつ収益を増やし、隣人からも少しずつ土地を買った。土地が十分広くなったときには人に貸し始めた」(祐子さん談)。
 隣接地を買い足して松原耕地を形成し、敷地内にカフェ農園、牧場、製材所、カフェ精選工場、煉瓦工場、商店、小学校なども建設し、十数家族が生活していた。妻マツさんが40歳だった頃、すでにかなり多数の家畜、コーヒーの木があり、棉作りに土地も貸していた。松原は一介のコロノから叩き上げ、20年後にはファゼンデイロになっていた。
 「それでも休みなく働いた。『彼のエンシャーダは普通の2倍の大きさがあるようだ』って言われていたのよ」と祐子さんは笑う。そして「アルキメデスを雇ったのはその頃だった」という。1918年の渡伯時に19歳だったマツさんが40歳の頃ということは、アルキメデスを雇ったのは1939年頃だ。
 ならば、松原がヴァルガスと知り合ったのは、1940年から戦中という可能性がある。37年にクーデターで独裁政権を樹立すると同時に、枢軸国移民への数々の制限を発表した。そんな時期に、枢軸国側の日本移民と個人的な親交を結ぶ…とは。にわかには信じがたいが、ヴァルガスという政治家の資質を考えれば、あり得るのかもしれない。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)

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