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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(22)=戦後の1割は松原の恩恵に=グアタパラや南伯移民も

行先別の松原移民枠で入った人数の表(『移住研究』24号、20頁)

行先別の松原移民枠で入った人数の表(『移住研究』24号、20頁)

 大谷晃を特許人とする松原移民枠を使って、サンパウロ州だけで1678人が入っており、実は麻州やバイーア州より多い。バイーア州は最初のウナこそ問題が起きたが、1959年以降だけで636人も続けて入った。つまり、松原本人は不遇のうちに祖国で亡くなったが、「移民枠」という大きな〃遺産〃を置いていった。
 この表から分かることは、実は石川島造船の技術者84人とその家族、南伯に入った農業者(単身80人、56家族)と技術者(単身91人)、グアタパラ移住地の132家族、リオのフンシャール移住地の47家族など、戦後に作られた集団地のかなり重要な部分が「松原移民枠」によって賄われていた。
 1954年1月に「ブラジル移植民院」(INC)が新設され、それ以前の旧「移植民審議会」の業務を見直す中で、松原移民枠と辻移民枠の内容を締結しなおした「7・1取極」が7月1日に交わされた。《七・一取極は、日本人計画移住の総合枠であった。(中略)特許人は、日本移民導入の窓口機関であった》(『移住研究』9号、大谷晃著「ブラジル移住再開の経緯」83頁)とある。
 この《七・一取極は、1960年11月14日に締結された日伯移植民協定が発効し、現実に実施に入った時、すなわち1963年末頃、その使命を了えて自然に消えたのであった》(同84頁)。つまり、松原移民枠と辻移民枠は二国間協定以前、事実上、〃民間による移民協定〃として機能した重要な取り決めだった。
 にも関わらず、送り込まれた戦後移住者本人は「松原枠」だったと意識していない場合が多い。「海協連扱い」だと思っていても、その実、多くが松原の恩恵を被っている。
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 松原には3人の息子がいた。三男のパウロ義和は戦前、父の希望で日本へ行き、和歌山の旧制田辺中学校を出て、〃移民の祖〃水野龍と同じ飛行機便で1950年5月19日に帰伯していた。
 祐子さんによれば上の二人の息子はあまり健康状態が良くなく、義和氏は帰国後サンパウロで学校を卒業し、ポ語や会計の能力があったこともあり、若干23歳で全てを託され、植民地の経営という重責を負った。
 義和とマリリア出身の祐子さん=クイアバ在住=は1961年に結婚。義和は歯を食いしばって最後まで植民会社を経営した。祐子さんは「(ヴァルガスから)約束された支援がこなくなって、全て私財を投げ打ってやらなくちゃいけなかった」との苦労を思い起こす。
 「最初は収益がなく、入っても全然貯えができない苦しい時代が続いた。アマゾンからセリンゲイラ(ゴムの木)の苗を持ってきたけど土地にあわなくて」。ピメンタ・ド・レイノは幸いにも合い、数トンのピメンタが取れたが、当時は市場の評価が低く、価格がつかなかった。
 「入った70家族、ほとんど全員が出てクイアバに来てきた」と振り返る。当時クイアバは南部からも人が移り住み、発展し始めた時期だったため、植民地を出た人は商業で成功した。
 約20年間続いたという植民地経営で、「夫はただの一度も文句を言わなかった」と祐子さんは繰り返す。「入った人に対して責任を持っていた。最初は毎月マリリアから飛行機で通って、重要な人も連れて行っていた。マリリアには日本映画なんか上映してなかったけど、リオ・フェーロには上映機を持って行ってやっていた。マラリアもあったし、皆出て行ったけど、夫は最後まで続けた。財産を成すことも考えていなかった。私も夫と一緒に行っていたし、あの頃、本当によく働いたわ」と、10年前に亡くなった夫を偲んだ。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)

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