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アリアンサ野球支えた一人=吉安園子さん 回想録=輪湖の講演に奮い立ち渡伯=吉安さんの父、15歳で決意

春子さんと幸平さん(手前左から2、3番目)が1969年に長野へ帰省した際、中学の同級生らと撮った写真

春子さんと幸平さん(手前左から2、3番目)が1969年に長野へ帰省した際、中学の同級生らと撮った写真

 吉安園子さん(86、二世)といえば、ドナ・マルガリータの右腕として長年、救済会「憩の園」の事務方を担い、現在は会長として日系社会の福祉の一端を支える人物だ。本紙が翻訳刊行したポ語版『Aliança』を機に、アリアンサ移住地の歴史を改めて掘り返す取材中、吉安さんの父は同地建設の中心人物・輪湖俊午朗と深い縁を持っていることが分かった。そんな吉安家の初期の逸話を聞いてみた。

吉安園子さん

吉安園子さん

 「これが父だと思います」。園子さんはそう言って、野球チームの写真の前列中央を指さした。日本語版では表紙写真、ポ語版なら160頁の写真だ。
 「1928年、アリアンサ・チーム全伯大会優勝の年」と説明が付けられており、同地野球が全伯最強を誇った黄金期を支えた一人だったようだ。そんな家族の歴史の背景、移住地建設にいたる流れがこの一冊の結晶している。
     ◎
 吉安さんの母、吉安春子さん(愛知、1910~01)は1927年1月10日、17歳で家族と共にマニラ丸で渡伯した。インド独立運動家のラス・ビハリ・ボースから調理を学んで1927年当時の日本では珍しかった純インド式カリーを販売して有名になった新宿中村屋―その四男、相馬文雄と同船だったという。
 第一次世界大戦後の金融恐慌や社会情勢の悪化を憂慮した祖父が、信濃海外協会を通じてアリアンサに移住地を購入した。
 春子さん一家は農業経験も無く、また移住先の環境についても知らなかったというから典型的な『銀ブラ移民』(銀座をブラブラしているような資産のあるインテリ階級)だったようだ。
 船中でも春子さんは従妹と「農業が駄目だったらタバコ屋さんでもやろうね」と語り合っていたという。


15歳で構成家族募集の新聞広告出す

 一方、父の大山幸平さん(長野、1903~87)は、春子さんの渡伯から遡ること8年前、1918年、15歳で渡伯を決意、自ら構成家族募集の広告を新聞に出し、沖縄出身の一家と共に1919年5月25日、鎌倉丸で単身渡伯した。
 「一体何が15歳の少年に移住を決意させたのでしょうか」と吉安さんに問うと、古びた一冊の文集を見せてくれた。そこには、大山少年の南米雄飛を激励する級友らの作文が並び、文中に輪湖俊午朗の名があった。
 1918年、輪湖は南米一巡中の日本力行会会長・永田稠とレジストロで初対面を果たした後、ブラジル宣伝のため、故郷の信州松本市に一時帰国した。丁度、米騒動が起きている時期であり、輪湖は海外移住地の必要性を再認識し、熱心にブラジル宣伝を行った。
 そのブラジル宣伝の場となったのが当時、大山少年の通っていた松本中学校だった。輪湖は大いに熱弁を奮い、大山少年は心を掴まれた。
 11人兄弟の家に生まれた大山少年は、家族への負担を減らそうと軍への入隊を考えていたが、生来の近眼が先行きを暗くしていた所であったという。

ただのクラス会が急きょ、渡伯送別会に

 大山少年は移住に対する決意を即日クラス会で発表し、担任教師だった西田寛氏はその時の様子を文集に綴っている。
 【ゴチ開始】「さあ大山がどんなこっけいを云ふかな」と思っていると、君は頗る真面目な顔をして開口一番「諸君、諸君は現在我帝国はいくつの植民地を有して居るか知ってゐますか」と云った。
 <中略>自分は「こりやいつもの大山とは少々調子が違う様子だわい」と思ってゐるとやがて君は数日前村で輪湖俊午朗氏のブラジル談を聞いたことを語り、その後で聲を改めて「自分も今度学校を辞めてブラジルへ行かうと思う」と云った。
 <中略>「大山が南米へ行くと云った。大山が南米へ行くと云った」と私は今聞いた自分の耳を疑ふ様に口の中でつぶやいてみた。否この聲なきの聲はこの一瞬間四十余名の人々の胸から胸へ流れたであらう。【ゴチ終了】
 クラス会はそのまま大山少年送別激励会となった。大山さんはこの文集を常に携行し、事あるごとに読み返していたという。
 無事に渡航を果たした大山少年はレジストロ移住地に入り、測量技師・野村秀吉氏(現サンパウロ市議の野村アウレリオ氏の祖父)の下で手伝いをした後、ポ語を学ぶため、サンパウロ市へと出た。サンパウロ市では家庭奉公やレストランの皿洗いをしながらなんとか日々を食いつなぐ生活を送っていた。

輪湖との運命の再会

晩年の幸平さん

晩年の幸平さん

 一年ほどたったある日、路傍に座り込み新聞の求人情報を読んでいると「きみ、なにしてるの?」と声をかけられた。偶然に通りがかった輪湖であった。
 大山少年は驚きつつもすぐさま立ちあがり、松本中学での演説に感動し移住を決意したことや当地での暮らしぶりについて話した。
 輪湖も驚いた。自分の子供と変わらない年頃の少年が、自分の言説に影響を受け、地球の反対側まで遥々独りやってきていたのだから。責任を感じた輪湖は大山少年を雇い入れ、アリアンサ移住地の開設を共に行った。
 第3アリアンサが開設された1927年は、田中義一内閣が発足し、民間の海外移住を支援する「海外移住組合法」の主掌省庁が外務省から内務省へと変わり、民間移住機関への支援費が国策移住政策に注ぎ込まれるようになる、移民を取り巻く環境が激変した年だった。
 道路、病院、学校などの社会インフラを同法の支援によって整えようとしていたアリアンサ移住地も混乱の渦中にあった。
 その中で23歳となった大山青年は、アリアンサに移住してきた春子さんと出会い、恋愛結婚を果たす。翌年8月には園子さんが誕生。春子さんが1人娘だったため、大山青年が婿入りした。

大霜を機にロンドリーナへ転住

輪湖俊午郎(『日々新たなりき ある拓人の生涯』同刊行委員会、1966年より)

輪湖俊午郎(『日々新たなりき ある拓人の生涯』同刊行委員会、1966年より)

 吉安家は第2アリアンサでコーヒー栽培を行っていたが、31、34年に同移住地を襲った大霜を契機に、パラナ州ロンドリーナへと移り住んだ。6歳になるまで第2アリアンサで過ごした園子さんは、父母から「永田稠さんほど凄い人は見たことがない」「結婚を断られた弓場勇さんが、バイオリンを担いで放浪の旅に出た」などと折に触れて聞かされ育ったという。
 輪湖はパラナを訪れる度、吉安家を訪れたが、幼かった園子さんは当時のことを詳しく覚えていない。1958年、30歳でドナ・マルガリータの仕事を手伝い始めた園子さんは、ドナ・マルガリータの友人で割烹学校を営んでいた佐藤初江さんの寄宿所において輪湖に出会う。
 その時の様子などから園子さんは輪湖に対して「信仰に支えられて生きた人」という印象を抱いた。輪湖はキリスト教信者で「もしもキリストが生まれた頃に自分が生まれていたら、その後を付いていったと思う」と話していたという。
 アリアンサの命名由来については、永田稠が「一致・協力・和合」という意味で命名したとも言われているが、園子さんは「きっと旧約聖書の契約の地(アリアンサ)から輪湖さんが名付けたのよ」と話し、回想を終えた。
 「家族やコロニアの歴史を改めて思い返す良いきっかけになりました」と吉安さんは『Aliança』について語り、同書は現在、日本語の苦手な弟らが家族の歴史を知るために読んでいるという。

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