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終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(8)=「中佐に頼るべきではない」

押岩嵩雄(『百年の水流』、237頁)

押岩嵩雄(『百年の水流』、237頁)

 丹念な取材を積み重ねた末に書かれた『百年の水流』で外山脩は、暗殺事件の実行関係者の一人、押岩嵩雄(1947年1月の森田芳一の甥ご札事件の関係者)から次のような驚くべき証言を引き出している。
 押岩は臣道聯盟が1946年1月頃にジャバクアラに事務所を開いたのを聞き、パウリスタ線のキンターナから出聖して吉川を訪問した。
 暗殺計画の存在をほのめかし、吉川に臣道聯盟のものとして認め、後始末をして欲しいとのお願いをした。それに対し、吉川ははっきり断っている。最初の暗殺事件が起こるのは3月だから、その前に打診していた。
 《理事長の吉川中佐に会って「時によっては、我々は敗戦宣伝派の指導者をヤリますが、後始末をして欲しい。受けて戴けますか?」と聞いた。時によっては……というのは、場合によっては……という意味だが「受けられない」という返事だった。
 「我々は、臣道聯盟の院外団ということでもよいのですが……」と言うと「イヤ、そういうものが在ってもらっては困る」と……。吉川さんは、戦勝派と敗戦派の対立は、平和に事を収めよう……という考え方であった。話が噛み合わない、という感じだった。
 「ヤル」とは襲撃の意味だが、改まって表現する場合は、決行という言葉を使った。我々は、キンターナに帰って「臣道聯盟や吉川中佐は頼るべき相手ではない」と、同志たちに話した》(241~2頁)
 終戦当時68歳、半身不随だった吉川は、コロニアを勝ち負けに二分してしまったシコリを、本来は互助・啓蒙団体である臣聯の活動を通して、ゆっくりとほぐそうと考えていた。
 臣聯の機関誌『臣道』第1号(1945年12月号)の巻頭に、吉川は「病床雑感」を寄せている。45年11月17日(同誌「人事往来」項より)に1年3カ月ぶりに出獄したが、その間、8月2日に半身不随になった。その経緯を《右手と右足は普通に動きますから是は半身不随だなと思ひましたよく考え見れば胴が自由でないから全身不随も同じ事で同室の皆さんに担がれてようやく便所に行った始末です》と記す。
 途中、又聞きの戦勝情報を転記しつつも、臣聯機関誌の第1号の巻頭を飾るものとしては、あまりに気弱な文章だ。本当にその1年前に〃吉川精神〃を書いたかと疑われるほど、病弱な老人の折れそうな気持ちを綴った文章となっている。
 監獄の病室で渡真利から臣道聯盟を結成した件を聞き、《自分はこれを継承する事はお断りして局外より全力をあげて応援をするのが男子の本懐でなかろうか、この際、諸君のご推奨に甘えて理事長の椅子に就く事は考え物だと思い、切に渡真利君にその意を洩らしてご意見を伺いました。ところが同君の仰せでは「それは困る。当の張本人は貴下ではないか。僕らが一生懸命に運動したのもその張本人があればこそだ」》と説得されて就任したとある。
 つまり、「臣道実践のための強力な団体結成」を願ってはいたが、獄中にいたので結成の顛末は知らされておらず、事後に報告された。だから、実際に動いたのは渡真利ら若手だったが、形だけ理事長に祭り上げられた。渡真利に敬語を使っており、相当に信用していたことが伺われる。
 本人が病気で動けず気弱になっているのを利用して、血気盛んな周囲の人物が勝手に行動した構図が浮かび上がる。同じ12月初め頃、脇山大佐もまだ「戦勝を信じていた」という話が『香山六郎回想録』に書かれている。(つづく、一部敬称略、深沢正雪記者)

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