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早田正明さん
早田正明さん

終戦70周年=〃台風の目〃吉川順治の横顔=身内から見た臣聯理事長=(1)=有名ゆえに抹消された男=軍人目指し新潟から徒歩上京

 コロニアにおいては超有名なのに、経歴や人柄が分からない不思議な人物に、吉川順治がいる。退役陸軍騎兵中佐で勝ち組最大の団体「臣道聯盟」理事長として、終戦直後に起きた「勝ち負け抗争」について記述される際には必ず名前がでる。その割りにコロニアの人名事典の類に彼に関する記述は皆無だ。それゆえ出身地や誕生年、没年など分からないことが多い。終戦70周年目の節目に甥の早田正明さん(95、佐賀)=聖市在住=に分かる限りを聞いてみた。

 主な人名辞典や列伝である『在伯日本人先駆者伝』(パ紙、55年)、『輝ける人々』(サ紙、59年)、『ブラジル日系紳士録』(宮城松成、65年)『在伯邦人産業・文化躍進の六十年』(池田重二、68年)、『日本・ブラジル人名事典』(パ紙、96年)のどれにも名前さえない。早田さんに「新潟県出身」と聞き、県人会名簿を探したが、やはり出ていない。
 その存在自体がタブー視され、避けられてきたかのようだ。
 「臣道聯盟の理事長だったというだけで、まるでテロの首謀者みたいに言われることがあって、家族はずっと迷惑してきた。吉川は戦争直後に脳溢血で倒れて半身が動かなくなり、とてもじゃないですが、そんなこと考えられるような状態ではありませんでした」。早田さんは吉川家を代弁して、そう弁明した。
 早田さんは「吉川さんは明治10(1877)年生まれ」と遠い記憶をたどる。『O Processo da ShindoRemmei』(以下『プロセッソ』、エルクラノ・ネーヴェス、1960年、101頁)の1946年4月3日の社会政治警察(DOPS)の訊問調書には《69歳》とあり合致する。
 さらに早田さんは「新潟県出身、弥彦神社の近くで生まれ育ったと聞いている」と説明した。『万葉集』にも歌われる古社弥彦神社の近くなら、新潟県西蒲原郡の辺りだ。
 「青年時代にどうしても軍人になりたいと思い、勉強したいが東京に出る金がないと悩み、意を決して歩いて上京したと言っていた。吉川さんは背が低いので、一生懸命に鉄棒にぶら下がって背が伸びる様に努力したとも」。新潟市から東京までは実に約270キロもある。
 『狂信』(高木俊朗、朝日新聞、1970年)158頁によれば、山内清雄(大尉)、吉川(中佐)、脇山甚作(大佐)の3人は陸軍士官学校13期の同期だとある。
 貧しい家庭の子にとって、授業料がかからず高等教育が受けられる陸軍士官学校(東京)は憧れの的であり、それゆえに狭き門だった。
 13期(計722人)は1901年11月卒業(吉川24歳)、03年6月任官した。同期には日露戦争(1904~05年)の第三軍司令官・乃木希典の長男・勝典(同戦争の南山の戦いで戦死)もいる。
 乃木勝典は生涯に3度しか受けられない採用試験の三度目でようやく合格した。年齢からいえば、勝典より2歳年上の吉川も採用試験では苦労したに違いない。(つづく、一部敬称略、深沢正雪記者)

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