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パナマを越えて=本間剛夫=67

 そういってアンナはロープをつかむと驚くほどの早さで壁面を蹴るようにして崖の上に立った。(さすが!)私は一瞬飽気にとられて見上げた。見事だった。
 崖の緑を巡り三角山の稜線に立つと、南東の風が西に傾きかけた太陽の熱さを和らげていた。海面に細かい線を描いて吹く風の流れは平和な世界を象徴しているようだ、戦争は終わった。これからは平穏な日が続く。エリカも不安なくアンナと一緒に帰還の日まで過ごせることになる。
 斜面を半ばまで下りたとき、左手にこちらに向かって降りて来る小さな人影が見えた。栗野中尉が約束通り来てくれたのだ。
「あれは誰」
「君を責任を持って司令部へ連れて行ってくれる粟野中尉だよ」
 アンナは頷いた。
 中尉との距離が数メートルに縮まったときにはもう司令部の入口に着いていた。アンナに中尉を紹介する前に素早い仕草でアンナは相手に掌を向ける米軍式の挙手の礼をした。そこから中尉が先頭に立った。
 今日の衛兵所には当直将校の姿がなく、雑談を交わして数名の兵たちが中尉に捧げ銃の礼をした。彼らの視線はアンナに集中した。アメリカの女の兵隊がなぜ眼の前に現れたのか、彼らにはすぐには納得できなかったのだ。粟野中尉と肩を並べ、胸を張り勝者の自信に満ちたアンナの歩調は衛兵たちを威圧していた。
 司令部への随道はいつものように不夜城の明るさで、敗戦の陣営にはそぐわなかった。
『科長殿に面会だ』
 中尉が下士官にいった。
 最も奥まった机にいた科長の眼がアンナを捕えると、すぐその視線を私に移した。(意外な!)という表情で明らさまに困惑の色を見せた。中尉はアンナを伴って科長の前に立った。私もそのあとに続いた。庶務科員の眼がアンナに集中した。科長は椅子に掛けたまま粟野中尉を見据えていたが、明らかに狼狽していることは視線が定まらないことで分った。
「副官殿……」
 中尉が科長を促すと、科長は中尉を睨みつけた眼を伏せ椅子を離れて無言で奥へ足を向けた。中尉とアンナがそのあとに続いた。
 中尉はアンナを同伴して来たことを副官と科長にどう説明するのだろう。私を庇ってくれることは確かだが、その後で私は制裁を免れないだろう。それは覚悟しなければならない。ともかくエリカ・アンナ姉妹が無事に連合軍側に引き渡されればいいのだ。私の腹は次第に固まって来た。科長は悪人ではない。
 アンナを秘かに司令部へ連行せよと命令したその裏に、副官とどのような黙約が交わされているのか知る由もないが、もし姉妹の生命にかかわるような内容であったとしても、それは副官の意志に課長が左右されているのだと想像できる。科長は悪人ではない。缶詰と煙草をくれたときのあの表情は仏そのものだった、悪の塊りのような三浦軍曹でさえ、孤独の少年兵のために死んだではないか。悪人はいないのだ。私は自分に云いきかせた。
 副官室で今、どんなことが起こっているのか、庶務課長の関心はその一点に集中しているのだろう。誰も私語する者はない。私も同じだ。しかし、奥からは何の物音も伝わって来ない。心配することはない。

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