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パナマを越えて=本間剛夫=70

 軍曹はまだ粟野中尉が連合軍に対して捕虜の件を通報していることを知らない。また、司令部が二人の捕虜をアメリカへの報復として処刑する考えがあるのを、粟野中尉が阻止するよう働きかけていることも知らない。だからエリカたちの生命はもう永くはないと予期している。
 この論でいけば連合軍は、私をも生かしてはおかないだろう。中尉を信じながら下士官の言い分にもなびいてしまう不安定な心の流れに私は焦った。ブラジル帰国はどうなるだろうか。ブラジルの敵として戦った二重国籍者の入国を簡単に許すだろうか。許す筈がない。〈何もかも運命なのだ。このことはもう考えまい〉私は強く頭を振った。

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 今日も粟野中尉は朝から副官をたずねた。
「お茶を出してくれんか。副官室へ。当番兵がおらんからな」
 川村下士官が云った。
 副官室で何が話されているのか。エリカたちのことなら絶好のチャンスだ。
 炊事場で固形燃料が焔を出し、湯が沸騰していた。三人分の茶を盆にのせ、捧げるようにして副官室への回廊を廻った。すると、粟野中尉の激しい声が聞こえた。立ち止まって耳を澄ませた。
「それは、いけません。捕虜の件は南方軍司令部へ報告ずみですから、連合国側にも連絡させているはずです。明日引き取るといって来るかも分りません。戦病死という名目では納得せんでしょう。又、わが軍の捕虜もこの海域ばかりでなく、比島や印緬、大陸を合わせると五、六十万になるでしょう………」
「黙れっ! 君に、捕虜の処置の指図を受ける必要はない。余計なことをいうな」
 副官の声がそれを押し被せた。
 私が入るとその声が止んだ。私は三人の茶を机に置いて引き下った。(粟野中尉は体を張っている……)
 庶務室へ戻ると下士官が吐くようにいった。
「お前、あの粟野中尉をどう思うかね。副官も科長もお坊ちゃんだが、あの中尉はもっと阿呆だよ。三人仲良く女を抱いた方がいいじゃねえか」
 怒りがこみ上げ私は叫んだ。
「副官たちはあの女たちを抱いたのですか」
 私の剣幕に驚いた下士官が慌てて顔の前で手を振った。
「いや、女が陥落せんのだよ。二人とも……」
 下士官は唇を歪めた。
「ああいうのが、可変さ余ってかどうか知らんが憎さが先に立つんじゃろな。減るもんじゃあるめえし、女も女だ。阿呆くさ……」
 私はエリカとアンナの無事を祈った。
 幼い頃から二人は父から聞いていた美化された父の国、日本人像が裏切られた幻滅にどう慟哭いる筈だ。
 数日が過ぎた。
「おい、降伏文書の調印日が決まったらしいぞ。十一月五日だってさ。後二週間だ。いよいよ帰れるぞ!」
 科長室から戻った下士官が相好を崩した。
 その日私に新しい命令が下った。エリカとアンナに協力して全島の将校に英会話の講義をすることだった。
 意外な状況の展開だった。粟野中尉の計らいに違いない。中尉の善意が彼女らを助けてくれたのだ。中尉の尽力を早く二人に伝えたかった。粟野中尉こそ、君たちの父親が語って聞かせた、ほんとうの日本人なのだと教えてやりたかった。

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