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終戦70周年記念=桜組挺身隊の記憶=カンピーナス 伊藤喜代子=第3回=「今、先生様がお散歩に」

 サントアンドレーのあの場所は、夕暮れ近くになると視界が遮られるほど霧の深い所だった。なので、朝は地面が濡れていた。その濡れた粘土のような土を踏んで下の池まで顔を洗いに行かなければならないのだが、かならず誰かが滑って尻もちをついた。大人の困惑をよそに、私にはそれが面白くて毎朝笑っていた。
 朝は、広場で体操をしたあとに朝食。
 おにぎり、コーヒー、バナナ又は、は、パンとコーヒー。
 あの時から私は塩辛いおにぎりに甘いコーヒーを飲むのが好きになった。
 へんな組み合わせのコーヒーと、おにぎりを食べている時、私は今でもあの頃に帰ってしまう。
 買い出し役、食事係、子供たちの勉強係など協議して決められた。
 幹部と呼ばれる人達は十人近く、そして最高幹部、「先生さま」と呼ばれる人物。
 この人物は、いつも黒メガネをかけていたから、私はこの人のメガネなしの顔を一度もみたことがない。四角い顔立ちで、浅黒い肌の骨太体格。
 奥様は、小柄で上品な婦人だった。
 彼らには、三人の子供があり、あの頃、長男は十七か十八歳、色白の母親似の端整な顔立ちの青年で、次男は肌の浅黒い彫の深い父親似の少年だった。
 そして、少女は母親に似た子で、色白のかわいい子だった。

鶏舎の中の様子(パ紙1954年12月9日付記事の写真より)

鶏舎の中の様子(パ紙1954年12月9日付記事の写真より)

 この家族がいつ頃着いてその他の家族と合流したのかは知らないが、食事の時間になると、婦人部のひとが特別食を作り、大きな盆にのせ、高く掲げて仰々しく運ぶのを見るようになった。私たちはそのあとで長い板に並べられた食事を食べた。
 その先生さまは、私たちのいる養鶏所ではなく、養鶏所の主人が住んでいた大きな家のほうに家族で住んでいた。めったにその家族にお目にかかれる事はなく、お出ましの時は、先生はもとより、家族全員が正装で出てきた。まるで天皇のお出ましのようで、周囲の者はひそひそと、「今、先生様がお散歩にお出ましになっている」と、ささやいて静かにしていた。
 私と年の近い次男の少年が半ズボンに膝までの靴下と革靴姿で出てくると私は眩しかった。
 何の会議か知らないが、幹部たちはしょっちゅう集まっては話をしていた。
 この養鶏場の敷地はかなり大きかったが、周りを囲むようによく人の姿がおり、時折、フラッシュが光った。報道関係者が監視していたのだろう。
 或る時、一人の日系青年が、桜組の思想に共感したといって入隊してきた。
 「たった一人で入隊してくるなんてよっぽどなものだよね!」と、みんな感心していたが、しばらく一緒に生活していつの間にか消えていった。もしかして、新聞記者だったのか、それとも警察の偵察員だったのだろうか? 子供の私はすぐにその事も忘れてしまった。(つづく)

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