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終戦70周年記念=桜組挺身隊の記憶=カンピーナス 伊藤喜代子=第4回・終=空き缶叩きセントロを行進

警察に勾留されていた時の桜組の代表者ら(パウリスタ新聞1954年12月9日付記事の写真より)

警察に勾留されていた時の桜組の代表者ら(パウリスタ新聞1954年12月9日付記事の写真より)

 幹部たちが眉にしわを寄せ忙しそうにしている他は、毎日、退屈するほどのんびりしていた。もっとも、大人たちの心はしるよしもなかったが。
 そんな日々のある時から大人たちは、大きな油の空き缶や、小さな空き缶をカンカン、カンカンと叩いて何かを作り始めた。
 サンパウロで行進するための太鼓がわりだった。
 サンパウロのジョン・メンデス広場は思い出深い。あそこから、あの日、行進を始めた(あの頃は、メトロもなく、今とは様子が違っていた)。
 整列して、桜組挺身隊のハチマキをし、太鼓がわりの空き缶を叩き、何処をどう進んだのか判らないが、お茶の水橋あたりまで行ったのではないかと思う。
 「行け、堂々と桜組!」の歌詞を声高らかにがなりながら、行進した。
 サンパウロに知り合いがいる訳でなし、なにしろ子供の私は平気だった。
 恥ずかしいとも思わず写真をパチパチ撮られて得意だった。
 あれからどのくらいたってからだろう…。
 ある朝、突然に何台もの大きなバスと共に大勢の軍人がやってきた。そして、素早く要所位置に就いた。養鶏場は、ハチの巣を突いたような騒ぎだったが、有無を言わさず、男たちと、女、子供は別々のバスに押し込まれて収容所と言うところへ連れて行かれた。
 私は、「おっ、いよいよサントスに日本の船が迎えにきたのか!」と、思った。
 でも、それは、桜組を解散させるためのものだった。
 それぞれが、サンパウロ近郊の農家に引き取られて行き、「桜組」は、散った。
 私の家族はモジ・ダス・クルーゼスの琵琶の農家に引き取られた。何故かその頃、無償にバストスが恋しく「帰ろうよ」と言って、父を困らせた。
 それから何年もして、先生さまの奥様はある家の女中をしていると聞いた。そして長男は、ブラジル人と結婚をしたと聞き、なんだか腑に落ちない気がした。あれほど、日本人、日本魂と叫んでいた先生さまの息子が早々と外人と結婚するなんて、「なーんだ」という気持ちだった。
 あの頃はまだそれほどブラジル人と結婚する者は少なかった。特に勝ち組の家庭では日本人同士の結婚しか考えられなかった。
 サントスに日本船が迎えに来る夢はかなえられなかった。
 のちに、私は母を日本に連れてゆく事はできたが、父はついにあれほど帰りたかった日本に帰すことができなかった。ブラジルに五十年の望郷の思いを埋めた。
 出稼ぎブームで、日本は金を稼ぐ所との思いだけで、ブラジル人たちが日本の各地で闊歩しているのを見て、私は妙に腹立たしかった。桜組の同志たちがどれほど帰りたかった日本だったか知らないでと。
 そんな思いから、数年日本に滞在した頃、私は、春になると、一番咲きのさくらの花の一枝を手折っては父の仏壇に供えた。
 桜の花の枝を折るなんて「非常識な外国人」と、思われないように、まだ薄暗い早朝を選んだ。「どうぞ、お許しください」と、思いながら。(おわり)

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