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宿世(すくせ)の縁=松井太郎=(17)

 千恵は夫の手をとって、自分の腹にあてがった。そこでは一つの命が育とうという意思で、母の胎内でおどっていた。太一はつい感傷的になって泣けてきた。泣けてしかたがなかった。これで夫婦の仲はおさまったようであったが。千恵は一生この傷痕を石のように胸のなかに持ちつづけたようで、夜の床でももう前のような身をなげだしてくるような情熱はみせなくなった。
 それから半年ほどして、日本はついに負けた。制約は解かれ旅行なども自由になったが太一はすこしも嬉しくはなかった。われわれは亡国の民になったと思った。頼れるのはひとりひとりの財産だけの時代がくるだろうと考えた。
 間もなく日系コロニアでいわゆる勝ち負けの騒擾がおきて暗殺者までだしたが、太一夫婦にとってはその頃が一番安泰な時期であった。外が騒がしいだけに家の中の問題はおきなかったのであった。
 戦後日本人の移動がはじまったとき、千恵の実家はサンパウロ市の近郊にうつるについて、太一らの仲人をつうじて、千恵の弟に太一の妹をということになり、それて話はまとまったものの、太一はまた一つ父から恩をきせられることになった。
 松山家は幾らかの資金はもってきたものの、はじめから地主になるには不足だったので義務農年をすますと、S町のはずれで荒れ牧場をかりて綿をうえた。それが二年つづけて当たったのである。そんなわけで太一らは移民のおおかたのあゆんだ道程、山奥に入って原始林を伐りひらいた開拓者ではなかった。つまり町すまいの百姓であった。
 ブラジルにきて運がよかっただけに、悪い耕地にいれられた者や、病人などがでて思うようにならない家族には、父は同情などはなくて甲斐性なしと言った。
 太一の父が借地した地主は、毎日ごろごろしていて働く気のまったくない息子と男あさりのほかはよねんのない娘に、遺産をのこしてやる気持ちはなく、戦争になる前に二十域を松山家にうったのである。終戦の頃、一家は唐胡麻(マモナ)と落花生をうえていたが、それらの作物に頼っていては前途の見込みはないようであった。
 当時、日系コロニアはパラナ州に移ろうとする流れがあった。けれども、太一はおおきな潮流にのるのはさけて、麻州(注・マット・グロッソ州)はどうかと考えていた。
 州都のカンポ・グランデには沖縄県人もおおくいるというし、州政府の払い下げの土地もあるときいた。
 ところが父は反対した。ロほどにもなく生活の変化をおそれていた。交通不便な奥地にゆくのではない、とうざ一家は町ずまいして、太一は仕事をさがすし、千恵も仕立ての看板でもだせば、彼女の気軽さでお客はつくだろうし、一家の生活にはなんの不安もないように思えた。この案には次弟も賛成した。ところが父はこれは太一の発案とみて、頭から反対した。ーそんな山奥にゆけるかーと言うのであった。父はーお前がゆきたければ、勝手に行けーと言う始末で、訳のわからない年寄りになっていた。
 後日、太一が回想してみるに、あの時、一家をあげて麻州に移っておれば、成功または不成功は別にしても、長男の家出は避けられただろうし、父も早死にはしなかっただろう。
 弟妹たちはいまでも、兄が父をころしたように思っているようだがそのような言い分がとおるなら、千恵なども流産で死んでいただろうし、太一も中年になって心臓を病んだが、父が財布をにぎっていれば、一家の邪魔物として、とっくに墓にはいっていただろう。

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