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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(33)

 上野さんが、地元の文協を案内してくれた。ACEB=バンデイランテス文化スポーツ協会=という名称である。会員は150家族というが、その割には、立派なグランドやプール、各種の建物があった。創立は1949年というから、終戦4年後であり、サンパウロの文協より古い。
 当初はバンディランテス・スポーツ協会という名称で、スポーツから始めた。当時は未だ、スポーツ以外で枢軸国人が集ることは禁じられていたためである。後に教育、文化、その他に活動を広め、1962年、現在の名称に改めた。
 上野さんは、別段何も言わなかったが、このACEBに強い愛着を感じているようであった。後で資料類を見ると、スポーツ協会創立メンバーの中に、その名があった。会長を何度も務めている。兄さんとやっていた店も経済的に随分尽している。
 話は変わるが、1930年代、ここに小田五郎兵衛という人がいた。日本では警官をしていたというが、移住してきて野村農場に入った。肉体労働の経験がなかったため苦労したが、独立して自分の農場を持つことができた。日系児童の日本語教育の世話役として献身、寄宿舎づきの学校を建設した。誰からも「小田さん」と呼ばれ親しまれた。
 戦後は南米銀行やコチア産組を、バンデイランテスに誘致するため奔走した。南銀は最初、代理店を開いたが、預金が少ないので閉鎖することにした。
 小田さんは他の代表たちとサンパウロまで行き、南銀本店を訪れ「自分の土地を売って預金する」と頑張った。南銀は、閉鎖する代わりに支店に昇格させた。コチアを誘致した時は、組合加入者を集めて廻った。
 上野さんもそうだが、昔は、どこの邦人社会にも、こういう世話役が居り、それで持っていたものである。(上野憲治さんは2014年、永眠された)


三章 サンタ・マリアナ

ルビー・オクヤマの特許料……の話

 バンデイランテスの西隣に、サンタ・マリアナという人口1万ほどの町(ムニシピオ)がある。ここは、ルビー・オクヤマ発祥の地として知られる。このイタリア葡萄の新種が、突然変異で出現したのは、同地の奥山孝太郎家の長男の葡萄園で、1973年のことであった。これが一個の産業にまで育ち、果樹栽培史上に一時代を築いた。
 これは様々な形で報道され、奥山家はアチコチから表彰されたり勲章を贈られたり、その祝賀会が開かれたりした。来訪者も相次いだ。1981年には、遂にサンタ・マリアナの市街地の広場に、御影石の記念碑が建てられた。その2年後には山本喜誉司賞を受賞した。
 その式は、筆者も取材したが、孝太郎氏の謙虚な姿勢が記憶に残った。「私どもが何をしたのでしょうか?」と受賞の挨拶で首をかしげていたのである。単に自家のウーバ園から新種が自然に現れただけで、特別のことはしていない、という意味であったろう。「反響の大きさに小生は辛うじて耐えてきた」と孝太郎氏は、回想録に記している。
 ルビー・オクヤマと名付けられたその新種は、各地に栽培が広まり、日本にも導入された。その結果、孝太郎さんは日本の農林水産省から招待された。この時は流石に辞退した。ほかにも理由があったが、訪日すれば、晴れの舞台で途方にくれるのではないか……という不安があったという。要するに、素朴な人柄なのである。
 筆者は、このルビー・オクヤマの特許料は、どのくらい入ったのだろうか……と気になった。奥山家は巨額の収入を得たのだろうか……と。それを知りたくて、今はミナス州のサンゴタルドに住む孝太郎氏に電話をかけてみた。電話口に出た氏は、もう90歳を越している由であったが、声は掠れてはいなかった。
 こちらの質問には、意外な返事が戻ってきた。同氏はルビー・オクヤマの芽(枝先)を売らず、希望者には無料で進呈したという。「芽を売るなどということは、考えてもいなかった」そうである。

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