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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(39)

キヨ夫人

キヨ夫人

14年間、帰伯不能

 ところが、日本滞在中、武雄が病気になったり父親の仕事を手伝ったりしている内に、大東亜戦争が始まり、帰伯不能になってしまった。
 農場は支配人によって管理されていたが、1942、3年、降霜があり被害を受けた。さらに、ブラジル政府が、枢軸国系資産の凍結令を発し、農場は当局の監察下に置かれた。
 やがて戦争は終ったが、敗戦下の日本では海外旅行は無理で、一家の帰伯は、なかなか叶わなかった。
 結局、滞日期間は14年という長期に及んでしまった。その間、武雄は後宮財閥の幾つかの会社の幹部を務めていた。支那事変、大東亜戦争、そして敗戦……という激動期である。経営というものを相当修行した。
 さらに戦争末期は、空襲で生死に関わる危険を体験、終戦後は食糧難に苦しんだ。しかも後宮合名は消滅した。財閥解体令の対象とはならなかったが、同社を支える事業は台湾、朝鮮など外地にあり、これは総て没収された。その後、内地の事業も終了……ということになった。武雄は人間としても、充分鍛えられた。

再建

 1950年、一家は漸くブラジルに帰った。この時、北パラナは姿を一変させていた。あの大原始林は殆ど姿を消し、カフェーの樹海と化していた。山間の霧の代わりに赤土のポエーラが舞い上がっていた。
 終戦後、5年が過ぎていたが、枢軸国系資産の凍結は、まだ続いていた。武雄夫妻は、凍結解除の運動のため、何度も首都リオデジャネイロに通った。翌1951年、遂に解除された。子供がブラジル生まれであることが役立った。
 農場再建が始まった。1951年、7万本を新植、計30万本とした。その1年後、農場はコロノ、カマラーダ計100家族の家屋、職員住宅、事務所、学校、タンケ、水洗場、乾燥場、発動機、精選機、倉庫などを備え、カフェーを数万俵、収穫できるところまで漕ぎ着けていた。この時期、カフェーは大好況期にあった。
 その頃、武雄が新任の支配人に、心がけとして渡した次の様なメモが残っている。(原文のまま)
「命令の仕放し式では不可。その実行を確認すること……命令しておきました、云っておきましたでは仕事の行われざる事度々あり。命ぜられる者の能力、才能は命ずる者と距りある事を充分認識しなければ不可。尚連続を要する仕事は、その旨充分説明しなければ、一日働きて翌日は何をしましょうかと申し出る輩なる事を知るべし」
……等々二十数カ条の微に入り細を穿つ注意が記されている。年季の入り始めた経営者の臭いが行間に漂う。

動揺せず

 1953年、またも大降霜が襲った。7月5日のことで、手記には、「気温零下五度に達し全葉霜の結晶を以って覆わる」とある。
 しかし武雄は、もう動揺しなかった。直ちに農場幹部を招集、次の様に訓示した。(手記より、原文のまま)
一、近来、珈琲事業者は恵れ過ぎ、過去の悲惨なる霜害の事実を忘却し、不相応なる拡張をして満足し、力の及ぶ限り所有地、所有本数の増大に汲々としおれり。しかるに小生は隠忍自重、消極的発展を志し、当農場のみに全力を注ぎ、自己の力を蓄積し、万一の非常時に備え来たれり。是、自己のみならず、幹部諸氏の将来をも常に考慮しあれば、斯る今回の惨事に遭遇するも今後の経営上、何ら諸君は心配する事なし。
二、人生、二度三度の浮沈の苦しみを積みてこそ、光輝ある彼岸に到達するものなれば、諸君は此の悲惨なる現状に心の平衡を失うことなく、小生の命令のまま動いて頂きたい。
三、小生は第二次世界大戦中、空襲下、生命の危険を体験してきている。生命に別状なき事業上の惨事なれば、年を待つ事に依って再び光輝ある将来を得らる。然もその将来は遠きに非ずして二、三年位なれば、小生を信頼し一致協力、次々に出す命令に従って頂きたい。
訓示の後、自ら先頭に 立って、この地域のカフェザールを回った。被害を免れた所はなかった。同日夕、再び幹部を招集、北パラナ全域の被害状況の把握、収穫済みカフェーの売却時期、保管方法などに関する指示をテキパキとした。
 戦場で壊滅的な打撃を受けた部隊の指揮官が、沈着に指揮をとっている姿に似ている。後宮武雄、45歳。大金持ちの坊ちゃんでも、修行の仕方によっては、ここまで成長するモノなのであろう。

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