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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(37)

慶応学生視察団

慶応学生視察団

「君の名は」の後宮

 ここで一寸、話の筋は逸れるが、後宮という姓は、元々は「うしろく」と読んだ。が、当時、戸籍は仮名をふらなかったので、信太郎は「あとみや」と名乗った。
 その弟は「うしろく」のままで通した。戦前から戦中にかけ陸軍の要職を歴任した後宮淳(うしろく じゅん)大将で、武雄の叔父に当たる。後宮大将は、東條英機首相と士官学校が同期であったが、その東條を「総理大臣なんかになるからバカじゃ」と評したという。
 終戦後、菊田一夫作の『君の名は』というNHKの連続ラジオ番組が、大ヒットしたことがある。その主人公の姓が「あとみや」であった。後宮家の前を菊田一夫が通り、表札を見て、その姓の利用を思いついた。菊田はその折、わざわざ許可を求めたという。

 慶応の学生視察団

 ところで、後宮武雄は何故、ここ北パラナに現れたのか──。
 実は、彼の北パラナ入りは二度目だった。
 前年つまり1928年の春、慶応の構内の掲示板に、「世界一周旅行の参加者募集」という報せが出た。各国の産業視察が目的で「期間五カ月、費用五百円、小遣い五百円」と付記されていた。普通の勤め人の月給が数十円だった時代である。
 慶応の学生は資産家の子弟が多かったから、思い切った企画を立てたのであろう。ライバルの早稲田大学が、学生の南洋視察団を派遣、大成功したのに刺激され、その上を行こうとしたという。
 この視察団は引率者と学生、計14名で構成、出発した。メンバーの一人が武雄であった。一行は、その旅行の途次、ブラジルに上陸、内陸部まで足をのばした。最初に、サンパウロ総領事館の館員の案内で、北パラナのカンバラーに直行、本稿一章で紹介したファゼンダ・ブーグレを訪れた。バルボーザは、その大邸宅で盛大な歓迎会を開いた。
 一行は、その後、サンパウロ州のカフェー地帯を廻った。旅行を終えた時、総領事館の館員、斉藤某が、「ブラジルには多くの肉体労働者が輸入されているけれど、智的労働者の輸入は殆どない。君達若き学生の幾人かが渡伯して、大いに活躍することを切望する」と別れの言葉を学生たちに贈った。
 武雄は帰国すると、両親に、ブラジルでコーヒーの生産事業に従事したい、と打ち明けた。母親は涙を流して反対したが、父親は承諾した。ということは、資金も出すということだった。なぜ承諾したかに関しては、資料を欠く。が、まだ若い武雄はともかく、成熟した事業家であった信太郎が、簡単にこの種の決断をした、とは考えにくい。
 筆者は、本稿二章で記した政府の財界に対する「移民支援のための対ブラジル投資」要請を、信太郎も受けていた──と筋書きを読んでいる。外地での事業の成功経験がある信太郎を、政府側が見逃す筈はない。先の話になるが、武雄が造った農場には、日本人コロノ(契約制の労務者家族)が、かなり就労していた、という。

万人の非難と嘲笑

 後宮武雄は気が速かった。卒業を待たず、翌1929年、在学中のまま再びブラジルに向かった。着伯後、真っ直ぐ北パラナに行き、セント・ビンチ・シンコの300アルケーレスを入手した──と、そういう経緯(いきさつ)であった。
 ところが、この土地購入は、北パラナの邦人間に物議をかもした。買値がひどく高く「地価を上げてしまう」と苦情の声がアチコチからあがったのである。本人に忠告する者もいた。武雄は手記を残しているが「万人の非難と嘲笑」を浴びたという。
 その土地は、実はバルボーザの所有であった。バルボーザは、本稿一章で記した通り、土地売りもしていた。ただ、この土地は子孫のために残そうとしており、売ることには消極的であった。武雄はそれを聞いて(そういうことなら良い土地だろう)と、邦人社会の声を押し切って、破格の値で買い取った。
 なお信太郎は、息子の日本出発に際して、自分が経営する会社の社員一人を、付け人として随行させていた。しかし──この一件が原因だったかどうかは不明だが──同時期、その付け人は武雄から離反してしまった。

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