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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(46)

往事茫々

 斉の息子の宮本ミノルは1962年、下院議員に当選したが、1978年の選挙で落選、以後、政界復帰をすることはなく、他界した。
 1973年、コルネーリオ・プロコッピオの市長になった邦弘の息子ネルソン氏は、当時28歳の若さで、将来を嘱望された。が、任期途中で降板した。
 宮本邦弘家の不幸は長く尾を引いた。昔、連邦警察で活躍した池田マリオ氏によると──。
 1999年頃、氏がサンパウロ市の連警州本部に居た時、宮本家の問題に関する書類が廻ってきた。邦弘の娘婿を呼んで事情を訊いた。その時、娘婿が、「(邦弘の)子供同士の仲が、うまく行っていない。互いに会うのは、警察で会うくらいだ。昔(前出の博打好きの)息子が父親のシェッケを持ち出し、巨額の数字を書き込み、サインまで自分でして……」と話していたという。
 筆者は先頃、ネルソン氏がコルネーリオ・プロコッピオに健在であることを知り、取材を試みた。ファミリア宮本に関する取材内容の正確を期し、併せて何か明るい話を記事に盛り込みたかったからである。
 生憎、先方の電話番号も住所も判らなかった。止むを得ず、この取材に協力してくれた人たちと、コルネーリオ・プロコッピオの市内を車で走りながら、通行人に声をかけ、手がかりを得ようとした。高名だった「ミヤモト」である。簡単に行くだろうと思ったが、案に相違して難航した。
 市民にとって、すでに遠い昔のことで、記憶も微かでしかなかった。往事茫々という感じだった。
 世の中というものは、そういうものであることを改めて悟った。
 後日、取材協力者の一人が、当人に連絡をとってくれ、一度はエンテレヴィスタに応じるという返事を貰ったが、結局、実現しなかった。

只野文児

 コルネーリオ・プロコッピオといえば、もう一人、話題を残した男がいる。名は只野文児といった。
 戦時中の1942年、青年仲間とボアビスタという植民地を造った。1944年、地元の警察分署に拘引され、ロンドリーナの本署に送られ、長く留置されていた。同胞の農場に侵入、薄荷を引き抜いた──という容疑によるものであった。薄荷農場荒らしについては本稿二章で触れた。
 出所後は悪びれず、この地でカフェーを栽培、一方で野球の指導などをしていた。が、そんなことでは血が収まらなかったのか、マット・グロッソ州のナビライへ移り、土地売りを始めた。
 同州は、その後、南北に分割された。ナビライは南マット・グロッソ州に在った。息子が州政府の農務長官になり、文児の名も上がった。が、1978年、ナビライの近くで銃殺死体となって発見された。前日ドラードスへ行き、その帰途、撃たれたという。68歳だった。

 当時のマット・グロッソは南も北も、土地に関しては無法地帯で、詐欺師や殺し屋がゴロゴロしていた。地価が安かったため、手を出す邦人がいた。が、騙され、裸にされた──といった類いの話が幾つもあった。警察に訴えても無駄で、却って殺された者すらいた。
 文児は、土地を北パラナの知人たちに売り込み、知人たちは義理で買っていた。
 彼が何故、殺されたのかは判らないが、仕事に関するトラブルからであろうと言われる。「殺したのは彼の車の運転手だった」と記す資料もあるが、仮にそうだとしても、その運転手の背後には、別の人間がいた筈だと──。

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