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『百年の水流』開発前線編 第一部=北パラナの白い雲=外山脩=(51)

臼井介仁支配人

臼井介仁支配人

 この地方は今日、国内有数の穀倉地帯となっている。何処まで行っても、車窓遥か地平線まで続く無数の大農場、しばしば現れる大、中、小の多数の都市から成っており、小国くらいの規模はある。まさに国造りをしてのけた観がある。
 筆者は、晩年の宮坂を知っているが(あの宮坂さんが、何故、そういう悔いを千載に残す決定をしたのだろうか?)と不思議でならない。以前、人生の先輩から「俗に言うエライ人でも、実は幾らでもシクジリを犯しているものだ」という意味の訓えを受けたことがあるが、そういうものなのであろう。
 それはともかく、拒否された臼井支配人は、やむなく、この馬の背を市街地用にロッテアメントし、購入者を募集した。が、どこからも応募者は現れなかった。
 そこでロッテを無償で提供することにした。すると、地元の入植者、ブラ拓職員、西村組の人夫から応募者が現れ、床屋、肉屋、パン屋、ペンソン、靴屋、洋服屋……を開いた。殆どが素人であった。店も小屋であった。
 お粗末なほどの市街地であったが、それでもアサヒランジャと命名した。アサヒは日本語の旭のことで「日出ずる地」という意味になる。名前だけは堂々たるものであった。


移住地建設、失敗か?

 ともかく、市街地はできた。しかし肝心の農場用ロッテへの入植者は、数家族──。どうなるのだろうか?
 翌1933年、ブラ拓事務所は入植者の確保のため、全予算の三割を宣伝費にさいた。さらに職員が、サンパウロ州各地の邦人集団地を廻り、住民の中から適当な人間を探し出し、入植者の勧誘に当たって貰った。分譲代金の一割をコミッソンとして支払うという好条件であった。が、成果は20家族に止まった。
 これは、サンパウロ州内で、綿景気の気配が出始めていたためである。態々、遠隔地に行って気の長いカフェー作りをしようとする人間は、少なかったのだ。
 もう一つ、入植者募集がロンドリーナとかち合ったことも影響した。北パラナ土地会社には日本人部があり、氏原彦馬という代理人が居た。これが活躍していたのである。氏原には、この『北パラナの白い雲』の最後の章(次の次の章)で、登場して貰う。
 それはともかく、こう少なくては、どうにもならない。早くも「移住地建設、失敗か?」の不安感が漂い始めた。


平十さん、お手柄!

 ここで話は、突如2014年に飛ぶが、筆者は二度目のアサイ取材中、案内してくれる人があって、元市長の福田美法氏を、その事務所に訪れた。雑談風に昔話をしていた時、福田さんが、ふと、こんなことを言った。
 「1934年、赤木平十さんが綿を入れた。見事に当たった。以後どんどん盛んになった」
 赤木平十? 初めて聞く名であった。しかし後で資料類に目を通すと、トゥレス・バーラス移住地の歴史は、この人を措いては語れないこと知った。
 1889(明22)年生まれの岡山県人である。青年時代から海外雄飛を志していたが、その機会を得ず、三十代の半ば過ぎになって、漸く妻子7人を伴って渡伯した。モジアナ線方面のファゼンダに配耕され、後に北パラナのカンバラーに転じた。例のバルボーザのファゼンダ・ブーグレである。1933年、トゥレス・バーラスにロッテを買って入植した。歳すでに四十代に入っていた。

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