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三宅ローザさん
三宅ローザさん

ジョーヴェン・グアルダ50周年=軍政検閲受けた三宅ローザ=日系唯一のJG出演歌手

 TVレコルデが1965年8月に始めた若者向け音楽番組「ジョーヴェン・グアルダ」(以下JG)は、軍政下における大衆音楽運動として10代を中心に爆発的な人気を呼び、番組名が一群の人気歌手グループを指すようになった。今年50周年を迎えた同番組に、日系で唯一出演していた歌手の三宅ローザさん(70、二世)には、あまり知られていないが、反政府運動のテーマソングを収録したが検閲で発売されなかった苦い経験がある。50周年を機に改めて尋ねてみた。

ローザさんとロベルト・カルロス(個人写真、1966年、ラジオ・サントアマーロ局スタジオで)

ローザさんとロベルト・カルロス(個人写真、1966年、ラジオ・サントアマーロ局スタジオで)

 「あの曲を歌い始めると、会場中が大合唱になるの。怖いくらい盛り上がった。でも、ヴァンデレは可愛そう。そのせいで…」。ローザさんはそう言うと、生き生きとサビの部分を歌い始めた。「久しく歌っていなかった」と言い訳しながらも、十分に往年を彷彿とさせる歌唱力だ。
 〃あの曲〃とは、60年代にテレビで大ヒットした初の日本直行便ヴァリグ航空のCMソング「浦島太郎」ではない。「Pra não Dizer que não Falei das Flores」(ジェラルド・ヴァンデレ作詩作曲、花のことを言ってるんじゃないと言わないために)だ。68年に発表された後、軍政から反政府活動歌とみなされ、演奏禁止になったいわくつきの曲だ。
 JGの司会者ロベルト・カルロスは現在も音楽界の〃王〃と呼ばれるなど、次世代の大物歌手を多数輩出した。ローザさんは「レコード会社からこの曲を発売しないかって提案があって、すぐに承諾したわ。だって聴衆の反応が凄かったから。録音は無事に終わったけど、結局発売はされなかった。レコード会社に事情を聞いたけど誰も教えてくれなかった」と悔しそうに振り返った。
 60年代、「JGとかMPBの番組とか毎週のように出演させてもらった。特にロベルト・カルロスに可愛がってもらったわ。よくカマリン(控室)にも呼んでもらった」と懐かしそう。
 軍政が反政府活動取り締まりを厳しくした法律AI―5(1968年)の施行と共に多くの歌手が亡命した60年代末、同番組も消えた。
 デビューしたのは15歳、1960年。「お母さんは『ルーツを忘れずに』といつも言ってくれ、日本舞踊は花柳金龍先生にならった。舞台での立ち方とか、間奏の間をどうするかとか、金龍先生のご指導のおかげ」と思い出す。ブラジル社会で活躍した彼女の基礎には、しっかりとした日本的素養があった。
 人気番組『イマージェンス・ド・ジャポン』に出演する中で奥原マリオ清政と結婚し、70年ごろから司会業に比重を置くようになった。「軍政だから、まず台本をDOPSに見せて検閲を受けた。だから政府批判はご法度。奥原は番組の中で本当はニュースをやりたかった。でも諦めて歌や娯楽に徹し、広くブラジル人一般が日本文化に親しんでもらえる番組作りに心を砕いた」と振り返った。
 「今はどんな歌でも歌える。だからこそ、あの時代を忘れちゃいけない」とかみ締めるように語った。

Rosa Miyake – Pra não dizer que falei de Flores


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 68年のTVグローボ「国際歌謡祭」で惜しくも2位になったのが「Pra não Dizer que não Falei das Flores」だ。サビの部分の「さあ行こう。今は知る時じゃない。知る者はやる時だ。待ってちゃいけない」が軍政への武装闘争呼びかけだと解釈され、街角でプロテストソング(反政府流行歌)として流行した。ヴァンデレの曲で他に有名なのはジャイール・ロドリゲスが歌った「ディスパラーダ」も。奇しくも同じ68年に坂本九が同歌謡祭に参加し、「SAYONARA」を熱唱した。64年に全米で「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」を大ヒットさせた勢いでブラジルデビューを飾ったが、残念ながら優勝は逃した。

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