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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第16回=戦中に伯国政府に抗議?

戦前に宮腰千葉太述で出された『日本精神講話』の目次

戦前に宮腰千葉太述で出された『日本精神講話』の目次

 『受難』の中の半田知雄日記には、こんな記述もある。《42年2月26日=第五列の嫌疑で捕まった人たちが、(留置場において)どんな生活をしているかは、多くの同胞が知りたがっていたことであったが、九十日も独房に入れられて、娑婆へ出て来たときには、見違えるような白髪の老人になった人……》
 ただ収監されるだけでなく、戦争中は「第五列」(スパイ)扱いされ、拷問を受けることも当たり前だった。
 『受難』の中の半田知雄日記には、日本移民を犯罪者に仕立て上げようとする警察の手口の記述もある。
 《五月二十三日、サンパウロ在住の日本人に、かなり大きなショックを与える事件が起きた。アラサツーバの奥で、一日本人がスパイの嫌疑で、警察の者から、蹴殺された事件である。犠牲者は、退役の伍長であった。もともと身に覚えがないことだったので、白状の仕様もなかった。警官から散ざん蹴飛ばされて、遂に内蔵出血を起こし、瀕死の状態になった。やり損ねたことを知った警官は、この不幸な旧伍長を、日本人の店先に連れて来て、放り出したまま逃げてしまった。(中略)
 こうした、地方の下っ端警官によって、同胞が苦しめられた事件は、もし当時、記録に留めておくことができたとしたら、かなりの数に登ったことであろう》(93~96頁)
 つまり、岸本昂一が書いた獄中でどう日本人が扱われたかという体験は、終戦後、みなが読みたかった内容であることは、認識派インテリの一人、半田知雄自身も感じていた。「かなりの数に登った」だろうが、記録には残されなかった。
 戦中に一番痛めつけられた企業家、指導者層が、戦後ことごとく認識派として勝ち組鎮圧に回った理由には、この経験が大きく関係したはずだ。
   ☆   ☆  
 戦前の日系社会リーダーに加え、当然のこと日本の元軍人や国粋団体関係者も捕まった。
 DOPSが押収した渡真利成一の「書類8」には、吉川順治が戦中の1943年に書いた「(伯国)第2軍団第2軍法会議」宛の日本語の手紙がある。渡真利は終戦直後の臣道聯盟で首謀格の一人となった。
 その手紙には、1942年12月、DOPSが「祖国愛国赤誠団」の件で、松崎留定(とめさだ)を捕まえて取り調べをし、《その際、拷問に堪えかね通訳たる「パウルー」(註=パウロか)の教浚(きょうしゅん)によって、赤誠団と無関係な私やパラグアス、キンターナに住む者の名前を記載せり》と書かれている。
 その後、松崎は逃亡。彼が不在のまま裁判をしようとする軍法会議に対して「このままでは無実の日本人に刑罰が下される。自分達被告はどんな極刑でも甘んじて受ける覚悟はできているが、他の在伯日本人らはこの不法行為を看過できないだろう。日本との国交が回復し次第、日本に働きかけて伯国に対して厳重抗議をお願いし、場合によっては国交断絶、あるいは戦争となることありえる」と抗議する内容になっている。
 日系企業家や指導者らはトラウマを負って勝ち組を弾圧する側に回ったが、戦後に勝ち組となる人たちの中には戦中に「伯国政府に抗議」しようとする傾向があった。大きな分かれ目だ。これがポ語に翻訳されて本当に軍法会議に提出されていたのであれば、かなり刺激的な内容だ。(つづく、深沢正雪記者)

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