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終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ=第18回=「湖で潜水艦建造」容疑

貴重な記録が収められているタケウチの本

貴重な記録が収められているタケウチの本

 戦中に強いトラウマを抱いていたのは、必ずしも戦前の日系社会指導者層だけではない。たとえばエリート二世層の代表の一人、翁長英雄だ。
 彼は臣道聯盟の記事を次々と書いて注目されていた。臣聯関係に限らず、緻密な取材に裏付けられた記事を発表し、時には警察官の悪事を暴き、「刑務所からでたらまず貴様を殺す」と予告されたこともあった。
 ルポの名手で、最終的にはガゼッタ・メルカンチル編集長になった。5人の兄弟のうち4人、英雄の弟のルイ、ロメウ、カオルもジャーナリストの道を歩み、唯一の妹アヤは山城ジョゼに嫁いだ。まさにジャーナリストの家系だ。
 2002年7月24日に取材したテープを訊き返すと、山城は戦争中にDOPSに収監された体験を話していた。
 《(翁長英雄は)ルスのDOPSへ連れていかれ、ポロン(地下室)に入れられた。僕も一回、引っ張られたことありますよ。当時、サンパウロ学生連盟ってあったでしょ。その仲間同士で結婚する人がいたのでピクニックにいった。そしたら、突然警察の黒い車が来て、政治警察に連れていかれました。まだUSPの学生でした。なんの説明もなく捕まって何の説明もなく釈放されました。全部で7、8人ですかね》
 戦前戦中の黄禍論について公安警察の資料を綿密に当って書かれたタケウチ・ユミ・マルシア著『O Perigo Amarelo』(ウマイタ出版、08年)にその〃事件〃の詳細があった。42年12月6日にサントアンドレー市のエルドラド湖に仲間の結婚祝いのピクニックに向かった時だった。
 翁長英雄はタケウチに《警察は、我々が湖で潜水艦を建造するつもりでいるという密告情報を持っていた。まったく信じられない》(161頁)と証言した。「湖で潜水艦を建造」などという話は、単なるでっち上げの言いがかりだ。同12月15日に釈放されたのは、〃事件〃を知ったUSP法学部の学生仲間や教師らが抗議をしたからだという(162頁)。USP法学部といえば、大統領を数人輩出するエリート校だ。
 〃事件〃の直前、42年9月28日付で山城ジョゼとその仲間が連名で、ヴァルガス大統領に「ブラジル人として祖国に忠誠を誓う」という手紙まで送っていた。日系初のUSP法学部卒で最初の弁護士・下元健郎カシオと共に、山城は1932年の護憲革命にも義勇軍として参加した。山城の父が強い国粋志向を持っていたことを反面教師として、強いブラジル人意識を持っていたと言われる。
 USP法学部や医学部の二世エリートが、当のブラジル官憲から「お前らもただの日本人だ」と鼻柱をくじかれたに等しい。
 DOPSが〃潜水艦〃容疑を思いついたのは、前月18日にはベレン沖でブラジル商船がドイツ潜水艦に撃沈され、22日にブラジルは独伊に宣戦布告をしていたことも影響しているだろう。9月2日にはサンパウロ市のコンデ街日本人住民に対して二度目の立ち退き令が出されていた。
 当時の官憲からすれば、日本人の顔をしているだけで一世も二世も同じであり、何かにつけて引っ張ってブタ箱にブチ込むべき存在だった。一世は仮想敵国〃戦野〃に住んでいる気持ちがあったが、〃祖国〃にいる二世にとってショックだった。
 義勇軍で戦って、大統領に直訴状を送り、USP学生にも関わらず、「ブラジル人」扱いされない自分たちという存在に対して、山城は戦争中に考え込んだのではないか。その経験の後、DOPSの通訳・翻訳を始めたのかもしれない。(つづく、深沢正雪記者)

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