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1946年、大飛蝗群の来襲=ラ・コルメナでの思い出=来年はパ国日本人移住80周年=パラグァイ 坂本邦雄

 早いもので来年(2016)は、私が育った戦前のラ・コルメナ植民地の創設80周年で、即ち戦後に続く全パラグァイ日本人移住80周年記念の誠にめでたい年でもある。そこで、今回はパラグァイ日本人移住『傘寿』の年にちなんで、はばかりながら昔のラ・コルメナ時代の思い出を綴つづって見たいと思う。

1887年にドイツライプツィヒで描かれた飛蝗の絵([Public domain], via Wikimedia Commons)

1887年にドイツライプツィヒで描かれた飛蝗の絵([Public domain], via Wikimedia Commons)

 これは、余り景気の良い話でもないが、当時入植10周年を祝った1946年の8月にラ・コルメナで初めて、チャコの乾燥地帯で発生したと言われる、まれに見るランゴスタ(飛蝗=サバクバッタ)の大群が、気温の高い北風に乗って空を覆う黒雲の如く襲来した時の経験だ。
 その規模は幅4キロ、長さ35キロに及ぶ面積にわたり、それがいっせいに地上に降りて、行く先々の作物や木々の全ての緑は見事にバリバリと食い荒らされて丸坊主になり、農家の被害は甚大を極めた。
 サバクバッタの蝗害の話は旧約聖書の『出エジブト記』にもあって、産卵期に飛来するのが最も悪質だとされる。
 と言うのは、産卵期に来襲するイナゴ群が地中に産む卵は、2~3日後に孵化し、その幼虫は正に油が流れる様に地上を絨毯進撃し、いまだ小さいながらも産れつきの貪欲暴食の徒で、草木類は先の成虫バッタによる被害にも劣らない追い打ちを被むるのである。
 古代中国などでは蝗害のせいで戦争が中断された事もあり、実にバッタは「食害」の大飢饉を惹き起こすのである。
 『ラ・コルメナ二十周年誌』を見ると、大飛蝗群の来襲は、1946年の8月から11月にかけて産卵期のものと、そうでなかったものとを合せ3~4回ほどあった。

火炎放射器で群れごと焼殺

砂地に産卵するサバクトビバッタ

砂地に産卵するサバクトビバッタ

 被害の防除は入植者の協同奉仕で、イナゴ幼虫の行く手を横に長い溝を掘って落とし入れ、埋没する方法などを施したが余り成果はなかった。
 それで、パラグァイ政府の支援もあって、数台の火炎放射器と燃料の灯油ケロシンが配布され、バッタや幼虫を焼き殺したところ、これが大いに効果を発揮した。
 ところで、このバッタ被害対策の副産物と言えば少々語弊があるかも知れないが、戦後間もなく祖国の敗戦で物心両面で少なからぬ打撃を受け、意気消沈していたラ・コルメナ人に、協同作業の「力の結集」を自覚させ、「一同共に力を合わせれば出来ない事はない!」という自信を喚起させた点にあるのではないかと思う。
 この気概が、その頃はラ・コルメナに見切りをつけてアルゼンチンやブラジルへ転住して行った多くの脱耕者と異なり、最期まで〃ド根性〃で居残った人達を一致団結させ、1948年には移住地の起死回生の任を見事に果し、「ラ・コルメナ産業組合」の創立を可能ならしめたものに他ならない。
 ついでに、日本人固有の生命力がイナゴ来襲にいかに対抗し、惜しみなく示されたかのエピソードに触れたい。
 つまり飛来した憎ったらしい大バッタを逆に取っちめ捕らえて、「いなご佃煮」や「から揚げ」にして食ってしまうのだ。日本人に遭っては、流石のバッタも良い災難で難なく食われてしまう。

バッタ食う日本人にパラグァイ人もビックリ

 パラグァイ人が驚いて、「すでに日本人は毒蛇も捕かまえて日干しにした粉を強壮剤にし、我々もそれを覚えて有り難く服用しているが、イナゴも食うとは呆きれた」と、日本人の〃イカモノ食い〃は大分評判になった。
 さらに、「犬食文化」と云う事があるが、詰まり狗肉を食用にする代表的な民族は朝鮮、中国やその他の東南アジアの国々で、欧米や(日本でも一部)には知られる食習慣だが、パラグァイ人は、「ハポネスは犬も食うのだろう?」と、初じめラ・コルメナ時代は牛肉も余り食べず、米を主食にする日本人の食生活は現地人の目には大いに珍奇に映ったらしい。
 それが、どうも犬を食うと言う件は返上するとして、今になっては日本の食文化が世界的に評価され一昨年、『和食』が国際連合教育科学機関に、「ユネスコ無形文化遺産」として登録された事を想うと、実に「今昔の感に堪たえない!」感傷を切に覚えるのである。

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