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「葉月」という月=義父・酒井と崎山精神=パラグァイ在住 坂本邦雄=《下》

老後にメソジスト教会の牧師になった酒井

 いわゆる「人はパンだけに生きるに非ず」で、余生を移住地の精神指導に尽さんと心掛けたのである。例の事件後に『IGLESIA MEMORIAL Yoshitaro Sakai=酒井好太郎記念教会』の銘板が掲げられた。
 筆者は迂闊にも、酒井夫妻は遅蒔きながら、その数年前にキリスト教の洗礼を受けた事を初めて知った。
 久し振りに酒井を、ピラポ移住地に訪ねた際に、「実に、静かな良い移住地で晩年が過ごせる」と、大変満足気に話していたのを記憶する。
 その後、思いがけなくも、あの惨劇で両親・酒井夫妻は聖天して仕舞った。返す返すも、親不孝の筆者は残念である。

ピラポ墓地の酒井夫妻の墓

 酒井夫妻遭難の後、旧週刊パラグアイ新聞社(奥畑喜代明社長)が「酒井夫妻追悼集」を新聞社のイニシアティブ及び負担で、発刊して下さった。その多くの追悼文寄稿者の中で、ラ・コルメナ移住地最後の支配人日沖剛氏、田名網七五三吉牧師、植民学校の交友や元ピラポ事業所職員等の数多くの人達が異口同音に、謹厳実直で曲がった事が大嫌いだった酒井を「真実の友」、「酒井さんはクリスチャン、クリスチャンとは酒井さん」だったと、その誠実な人柄に敬愛、尊敬の念を一様に述べている。
 筆者が事件後、当時アスンション市のサンティシマ・トリニダー大通りの社会保障局IPS中央病院の向い側の住宅に住んで居たヒューストン牧師に、酒井が生前お世話になったお礼の挨拶に伺ったところ、同牧師は大変酒井の人格を讃えて、真実のクリスチャンを亡くし、惜しい事をしたと、涙ながらに話したのを記憶する。
 筆者は、アメリカ人の涙を、初めて見たものだ。
 筆者は、義父酒井について色んな思い出を、まとまりも無く述べて来た。それは酒井が何となく崎山精神の話をするのを聞いて育ったためで、全ては厳しく説経するのではなく、身をもって手本で示す主義だった。それに、母親テルは昔郷里甲府の実践女学校を出た事もあって、日本語の家庭教育に熱心だった。
 叱られる事は滅多になかったが、怒ると本当に怖かった。酒井とテルは真に苦楽を共にした似たもの夫婦だった。なお、酒井は皇室を畏敬する明治人らしく乃木将軍や二宮尊徳などの徳義を範とした。
 初期のピラポ事業所で一緒に仕事をしていた筆者の同輩、故木戸一栄氏は「酒井さんは無言実行型で、移住事業の仕事のツボを良く心得ていて、身体は小さいが、学校の寮の舎監先生の威厳があって、とても頭が上がらなかった」と述べて居る。
 筆者は幼少より酒井の口から、信仰の話を一切聞いた試しが無く、晩年になって夫婦して初めて新教徒の洗礼を受け、伝道師になった事を、後程初めて知った程である。
 そして、ピラポ移住地で自由メソディスト教会を建て、教会守りをしながら、夫婦して穏やかな余生を暮らす心算だった。

ピラポ移住地の会館(JICA資料より)

「酒井兄姉記念教会」の献堂式が6月23日に

献堂式に集まった人達

 親不孝も良いところの筆者は、両親の災難の後、酒井が遺した店兼住宅の土地と教会が建てられた隣接地区は、事業所や関係者に後継の牧師さんが来るまで管理を願って、家屋は宣教師住宅に充てるべく、期待していた。
 しかし、勝手な筆者は他事に追われ、ピラポへ行く事もなく、その後の事情を一切感知しなく、その以前の事も分らない。
 だが、2015年に至り、日本キリスト教団から「ピラポ自由メソジスト酒井兄姉記念教会」に、知花スガ子宣教師が派遣され、移住地の日本語学校の教師も兼務しながら、2年間務められて今年1月に帰国された。
 続いて5月には後任の江原有輝子新牧師が着任し、前記の「酒井兄姉記念教会」の献堂式が、去る6月23日に、地元関係信者や各方面の牧師さんが大勢集まって祝賀された。
 ちなみに、パラグアイで移住地が6ケ所あるが、日本人教会があるのはピラポだけだそうである。かつて、酒井が点じた小さな信仰の灯火が立派に輝いたのである。
 思うに、この教会の落成式=献堂式は2度目の事ではないかと思う。つまり、酒井が生前建てた教会及び住宅の敷地は、筆者が教会に献上の意味で、旧事業団にお任せした。だが、このたび市街地中央区の筋向いの別な場所に建てられた新教会は、大変お金も掛ったとお聞きするが、多少はその資金の足しにでもなったのだろうか・・・?
 筆者は、昔CAICISA製油㈱に勤務中、石井社長(元大使)とのジープの事故で骨折の大事故や、その後の硬膜下血腫で頭の大手術を受けたなどの、後遺症のせいかは知らぬが、最近急に半身不随になり、今でも未だ歩行が不自由等で、自宅で蟄居静養中である。せっかくの献堂式への御招待をもらいながら、出席かなわなかった。
 全く、デタラメな、義父とは似ても似つかぬ無責任な筆者に自ら呆れている。
 筆者が、旧移住振興会社のアスンション支店勤務中、大畠一男支店長は「よくもラ・コルメナは、戦後の移住事業にさっそく役立つ多くの人材を早くから教育したものだね!」と感心していた。
 また、筆者がワイフと共に一度、日本に旅行した際に、旧拓務省ラ・コルメナ駐在官、戦後はエンカルナション領事を務められた、その頃は既に外務省を退官されていた藤勝周平氏を御自宅に訪れた。その節、同氏は「イャー、酒井さんは、本当に植民精神を最後まで貫いた人だったね!」と故人を大層偲んでいたのを記憶する。
 これは、故人がブラジルの稲田耕地に始まり、戦前のパラグァイで初めての日本人移住地ラ・コルメナから戦後のピラポ移住地に至るまで一貫して全うした崎山精神に他ならない。
 崎山先生は、太平洋戦争が勃発する少し前に、自身も一家揃って、伯国アマゾンのマナウスに入植された。戦時中にピメンタの栽培に従事しながらマラリアに斃れた。
 その恩師崎山先生が「理想の村落に不可欠なのは①教育、②教会、③協同組合の3要素だ」と説かれた。その教えを、酒井はパラグァイで正に実践躬行したのである 。
 それを裏から静かに支えたのが、酒井テルの人知れぬ内助の功であった。
《終わり》

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