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自分史=ボリビア開拓地での少年時代=高安宏治=(5)

ユイマールで住宅造り

ユイマールで住宅造り

 母にブラジルの都会に再移住する、と告げると、母は大変喜んでくれた。11年間のボリビア移民地での精神修養、僕にとっての「無形の財産」となっているものは、[一人の女性の縁の下の力持ち]から学んだ今は亡き母の言葉である。「人一倍働けば必ず成功する」―この言葉は、困難に直面する時に、いつも僕の胸に蘇る力強い言葉である。
 母は、沖縄県本部町の山村の貧しい農家に生まれ、戦前の小学校で学んだだけで、ほとんど学校での教育を受けていなかった。この母の教えは、「移民開拓精神」 に当て嵌まる僕にとっての諺だった。
 「チュ イチバイ ハタラチーネ カナラジ セイコウスサ」の諺は今でも守り通し、自分の子や孫にも言い伝え教える言葉である。

移民地の学校

 移民各団体がまとまって入植したが、道路事情も悪く、交通手段もほとんど全くなかったために、それぞれの入植地近くに学校校舎を建て子供たちの教育を始めた。
 「開拓に追われていて苦労が多いが、子供の教育だけは少しでも良いものにしてやりたい」、という父母たちの願いからであった。
 大人たちがユイマールで協力し合い、ジャングルの中から切り出した材木で小屋を組み立て、モータクーの葉で屋根を葺いた。こうして出来た校舎に手作りの黒板を備えて開校できた。

第1学校(一号線校) = 1960年7月開校第6次移民までの子弟中心。

第2学校(ラス・ペタ校) = 1961年7月開校第7次移民の子弟中心。

第3学校(パイロン校) = 1962年1月開校 第8次、第9次移住者子弟対象。

第4学校(リオ・グランデ校) = 1962年2月開校 第10次、第11次、第12次移民の子弟中心、それら4つの学校が創立されスペイン語中心に授業が始められた。

 ところで、入植2年後に米国政府から沖縄の海外移住者に対する援助資金がでて、夢にまで見た飲料水打ち込みポンプが第2組合本部の耕地内に完成した。深度53メートルいずれも4インチパイプを打ち込んだものだ。
 真水が豊富に汲めるようになり、人々は飛び上がらんばかりに喜んだ。これでコロニアの泥水生活は解消できたのである。
 第2コロニア沖縄では琉球政府ボリビア駐在事務所を中心に、ここにおいても米国政府から20万ドル大型無償援助金を受けて、ブルト―ザー2台が到着、原始林の中を道路が開かれていった。本部用地も着々と整地作業が進められた。
 入植当時の初代組合長は長山哲、専務が照屋弘であった。やがて組合事務所ができて、医務室、食料売店、機材倉庫、精米所、製材所、カトリック教会と次々に諸施設ができあがった。
 第1コロニア沖縄と、第2コロニア沖縄の貫通道路もでき上がり、道路も広く馬車、自転車、自動車の交通手段も増えて便利となった。

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